上間常正 @モード

今求められるのは「心に寄り添う想像力」 メスとパレット握る名医が教えてくれること

また新しい年が巡ってきた。だが、イランとアメリカの武力的な脅し合いや日産の前会長カルロス・ゴーン氏の国外逃亡など、年始めのニュースはろくでもない不穏なものばかりで、どれもその中身は去年の続きといってよい。そんな中で今年の行方に明るさを感じさせるのは、去年も多発した自然災害の被災地救援に向けた、特にボランティアの人たちの支援の輪の広がりだった。

支援のために最も必要なのは、お金や効率的な組織よりも、被災した人たちの気持ちを思って共感する想像力をもって行動することだろう。そしてそれは自然災害に限らず、病気やあらゆる事故の被害者に対しても同じことだ。そんなわけで、今年最初のこのコラムではちょっとファッションから離れて、常に患者の命と向き合う一外科医として臨床の現場に立ち続けてきた一人の世界的名外科医が書いた本を紹介したい。できればなるべく多くの人に読んでほしいと思うからだ。

今求められるのは「心に寄り添う想像力」 メスとパレット握る名医が教えてくれること

「メスとパレットⅤ はるかな生涯 一臨床医への道」(森武生著、丸善プラネット)

この本は去年9月に出版された「メスとパレットⅤ はるかな生涯 一臨床医への道」(森武生著、丸善プラネット社)。著者の森さんは1944年生まれ。東京大学医学部を卒業後、東大の医局の系列には向かわずに、75年から都立駒込病院(現:がん・感染症センター都立駒込病院)外科に勤務。最後は臨床も続ける院長を経て、現在は吉祥寺南病院の顧問として臨床に立ちながら、学会や手術の指導で世界各地を回って、患者の立場に立った医療体制整備の支援を続けている。

「メスとパレットⅤ」とあるのは、森さんは以前から医療体験に基づくエッセーを雑誌に発表していて、それをまとめた本を96年に刊行。今回の本が5冊目になるからだ。この本は年齢的にいってもその集大成といえる内容になっている。

今求められるのは「心に寄り添う想像力」 メスとパレット握る名医が教えてくれること

ルーマニア、ブカレスト(2007年)

今求められるのは「心に寄り添う想像力」 メスとパレット握る名医が教えてくれること

エジプト カルン湖(2011年)

本には16の闊達(かったつ)なエッセーと、15本のアジアやヨーロッパ諸国、日本も含めた旅日記とスケッチが掲載されている。スケッチは一見さらりと描いているようだが、よく見ると緻密(ちみつ)な観察に裏打ちされていること、そして日記の内容を象徴するような対象が時間と手間をかけて選ばれていることが分かる。多分それは、優れた外科医の眼差しのなせる業なのだろう。

どのエッセーからも伝わってくるのは、一人ひとりの患者と接しながらどうすれば一番よいのかと自問自答を繰り返しながらあくまで誠実に向き合おうとする姿勢だ。そして時には深刻な反省をしながらも、患者を愛し希望を失わないこと。外科医は「常に再現性のない状況で、二者択一を求められる」からなのだ。

今求められるのは「心に寄り添う想像力」 メスとパレット握る名医が教えてくれること

ラオスの仏塔(2018年)

森さんの文章は、よく自然や生き物の細やかな描写から始まる。たとえば「また春が近くなり、庭の辛夷(こぶし)の樹の蕾が大きくなってきた。真っ白い花が咲き乱れて、空の青との美しい絵になるのも近い」に続いて、最近は野鳥たちが蕾を食べてしまうようになり、パチンコで追い払っていたが、やっと冬を越せて夢中で食べている鳥たちへの共感から「追い払うのも可哀想な気がしてきた」と書いている。

「追憶」という文では、医師になろうとしたきっかけを「理不尽な死を見ることが嫌だったからである」。高校生の時、大好きだった田舎の伯父が、がんであっという間に亡くなり、「よし、癌と闘う外科医になろうと思った」のだという。そして記憶については、いつもくっついていた母の思い出を「我々に暖かい穏やかな浅黄色の春の霞みのような記憶を残してくれたことに感謝あるのみである」とも。

紹介するのはきりがないくらい、森さんの文章はきびきびしていてかつ繊細な思いが伝わってくる名文だ。文章のプロとして読むと所々に素人っぽさもあるのだが、それもかえって森さんの子供のようなナイーブさという一面を思わせるようで微笑ましい。素人の悪ずれとは訳が違うのだ。(もしかするとそこまで計算しているほどの文章の達人なのかもしれないけれど……)

今求められるのは「心に寄り添う想像力」 メスとパレット握る名医が教えてくれること

森武生医師(左)、患者さんと

森さんは今では週1回、「出血を伴う手術を行う外科医の贖罪の意味を込めて」献血ルームに一日中座って献血希望者の血液を調べる役割を果たしている。これまで何百回も献血しているおじいさんに「この人の血が私の手術を助けてくれたかもしれない」と、ひそかに頭を下げる人柄なのだ。

最後に告白すると、森さんは筆者が十数年前に胃がんで駒込病院で受けた胃の全摘手術の執刀医だったのだ。麻酔のおかげで手術のことは全く記憶にないが、消化器の手術後によくある腸閉塞や出血などは全くなかったし、切開した傷跡もまっすぐな細い線でほとんど目立たないことからも、手術の手並みがさぞかし鮮やかだったのだろうということが分かる。

森さんは一見では無骨で、言葉の少なだ。しかし思い出してみれば、院長としても超多忙だったはずなのに筆者の病室によく顔を出して病気とはあまり関係のない話をしてくれた。手術の2日前に、これが腹いっぱい食える最後の機会と思って病院を無断で抜け出して近くのレストランでフルコースの料理とワインをしこたま飲んだことにも何も言わなかった。そうしたやり方が筆者にとっては適していると見抜いていたからだと思うのだ。

それと、今回はファッションとはちょっと離れて、と書いたが、あえて付け加えれば、森さんは男性ファッションの歴史からすると、精神的な孤高の立場を重んじるダンディズムの定義にかなうまさにダンディーなのだ。

おすすめの記事

  • つつましい“ヒーロー” 尾畠春夫さんのファッションと生き方

    つつましい“ヒーロー” 尾畠春夫さんのファッションと生き方

  • 作品としての本「イッセイさんはどこからきたの?」が示す、三宅一生の類い稀さ

    作品としての本「イッセイさんはどこからきたの?」が示す、三宅一生の類い稀さ

  • >>「上間常正 @モード」 記事一覧

    PROFILE

    上間常正

    ジャーナリスト、ファッション研究者。1972年、東京大学文学部社会学科卒、朝日新聞社入社。記者生活の後半は学芸部(現・文化くらし報道部)で主にファッションを担当。パリやミラノなどの海外コレクションや東京コレクションのほか、ファッション全般を取材。2007年に朝日新聞社退社、文化学園大学・大学院特任教授(2019年3月まで)としてファッション研究に携わる。現在はフリーの立場で活動を続けている。

    マルジェラとガリアーノ、鬼才デザイナーのあり得ないコラボによる服の美しさと深さ

    一覧へ戻る

    多様化したようで均質化が進んでいる? 今年のファッションの行方は

    RECOMMENDおすすめの記事