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「今日は寒いね」から人生変わった 「銭湯図解」を生み出した塩谷歩波さん

銭湯の魅力を紹介する特集の2回目。今回は、銭湯を緻密(ちみつ)なイラストと体験記で紹介する『銭湯図解』の著書がある塩谷(えんや)歩波さんです。東京・高円寺の銭湯「小杉湯」の番頭でイラストレーターでもある塩谷さん。彼女を救った銭湯の力とは。

脱衣所に図解がずらり

JR高円寺駅北口から歩いて5分ほど。住宅街にある小杉湯へ塩谷さんを訪ねた。脱衣所に入ると、壁には小杉湯をはじめとした銭湯のイラストがずらり。塩谷さんが建築設計の技法を使って描いた銭湯図解だ。斜め上から見た銭湯が立体的に描かれている。図解の中には浴場だけでなく待合室や脱衣所もあって、体を洗ったり、風呂に入ったりする人たちも描かれている。余白にはアメニティーや設備を解説するコメントも添えられていて、思わず見入ってしまう。

「建築ではあんまり人は描かないのですが。私は、過ごしている人の様子も見て『楽しいな』と思ってもらえるように人を描いています。銭湯ごとに、どこを見せたいか最初に考えて、紙に入りきるようにしながら見せる角度を決めます」

図解のための取材で使う必需品は、メジャー、レーザー測定器、防水のメモ帳と耐水性のペン、カメラ。「今は、だいたいどこを測ればいいかわかっているので、1件の測定時間は10分くらいです」。実測データをもとに下書き、ペン入れ、着彩と進み、1枚を20時間ほどかけて完成させるという。

「今日は寒いね」から人生変わった 「銭湯図解」を生み出した塩谷歩波さん

脱衣所には「銭湯図解」がずらりと貼られていた

「1回休み」を引き続けるような苦しみ

塩谷さんは、インテリアコーディネーターの勉強をしていた母親の影響で、中学生の頃に建築に興味を持った。

大学、大学院と建築を学び、設計事務所に就職。しかし1年半ほど働いた頃に体調を崩した。「機能性低血糖症と診断されました。うつっぽくなるし、顔色も真っ白で。めまいもするし倦怠感もある。一言で言うと心も体も元気がなかった」

大学時代は建築を見学するサークルに入り、設計課題に取り組むため10日間大学に泊まり込むこともあったほど、建築にのめり込んでいたという塩谷さん。「働き始めてから、建築の法規とかお金のこととか、考えないといけない仕事がどんどん増えてきて、デザインを考える時間が少なくなってしまい、違和感を感じるようになった。あんなに設計が楽しかったのに嫌になってしまって」

「それでもやらないといけないと思って続けていたけれど、めちゃくちゃつらくて……。建物を建てたいという気持ちにゆらぎを感じるようになったから、体調にも変化が出てきたのかな、って今は思ってます」

「今日は寒いね」から人生変わった 「銭湯図解」を生み出した塩谷歩波さん

医師のアドバイスを受け、休職した。「同世代と話すのが怖かった。自分だけ『1回休み』をずっと引いているような気持ち。みんなはどんどん進んでいるのに、自分だけ何もしてない、みたいな。若い人たちが集まって話している声を聞くだけでも、本当に嫌だった」

そんな気持ちを癒やしたのが、大学のサークルの先輩に誘われて通うようになった銭湯だった。「銭湯は違う世代の人たちがいて、比べる必要がないんですよね。聞こえてくるのは天気の話とかスーパーの話とかだから、『そうなんだ』と思うだけ。昼間の銭湯は気持ちいいし、私には(あつ湯と水風呂の)交互浴も合っていたみたいで」

あるとき同じ湯船に入っていたおばあさんと目が合って、「今日は寒いね」と話しかけられた。「落ち込んでいるときは、そういうたわいもない話がすごくしみる。純粋にこれ、いいなと思いました。『この人どうして、今日ここにいるんだろう』って相手のことを考えた。それまでより、視点が広がったんでしょうね」

「今日は寒いね」から人生変わった 「銭湯図解」を生み出した塩谷歩波さん

「銭湯に行けば全部うまくいくと思うようになってからは、銭湯にはまってしまって」。その良さを伝えたくて、訪れた銭湯を思い出してスケッチしSNSで友達に送ると、反響がたくさん届いた。だんだんと「うちも描いて」と銭湯側から頼まれるようになり、営業時間前に取材し、図解にするようになった。「思った以上に反響があったのがうれしくて。何枚も何枚も描くようになりました」

復職しても、なかなか体調は戻らなかった。パンフレットをつくった縁もあり、小杉湯に転職した。「ずいぶん悩みましたが、友達10人全員が転職したほうがいい、と言ってくれて。どちらにしても後悔はしない。自分の選択には責任を持つと決めて転職しました」

「今日は寒いね」から人生変わった 「銭湯図解」を生み出した塩谷歩波さん

思いがけずピッタリだった「クリスマスプレゼント交換会」

建築の世界から銭湯の経営側へと転身した塩谷さん。「経営の面では、お金のやりくりとか、お客さんへの想定外の対応とか大変なことも確かにあります。まじでいろんなことが起きるんです。でも『お風呂気持ち良かったよ』と言ってくれる人もいて、反応がダイレクトに来る。そういう反応がすぐに返ってくるというのがうれしくて。お客さんと近いのは経営側として癒やされる」

「魅力があるし、広告的な視点、建築、文化のことを考えると銭湯は掘り下げがいがめちゃめちゃある。人を集めるような魅力があって、イベントもできる。そこで何かを伝えることができるという素地があるとすごく思っていた。まだだれもやっていないし、イスがあいてると思いました(笑)」

「今日は寒いね」から人生変わった 「銭湯図解」を生み出した塩谷歩波さん

小杉湯の待合室には漫画と色紙が並ぶ

銭湯はまちを知るための「ハブ(中継点)」としての機能もあるという。「長年いる人が多いので、食事処やいい目医者とか、聞くといろいろ教えてくれるんです」

昨年末には塩谷さんが企画し、小杉湯でクリスマスプレゼント交換会が開かれた。番台の前に白い大きな袋を置いて、客が一つプレゼントを入れると、他の客が入れたプレゼント一つを持ち帰れる。「仕事中に通りかかって袋をのぞく度に、新しいプレゼントが入っていてうれしかった」。もらったプレゼントを自慢している声も聞こえた。「誰が受け取るかわからないけれどプレゼントを入れる。季節感をだそうというのが最初の狙いでしたけど、『みんなで使うお風呂だから』と他の人を気遣う、銭湯らしさを象徴したイベントになりました」

「こういう優しい気持ちに私はすごく救われたんです。顔の見えない誰かを思いやる心が、銭湯にはあるんです」

「今日は寒いね」から人生変わった 「銭湯図解」を生み出した塩谷歩波さん

銭湯は日常の中の非日常

銭湯でイベントを開くなどして銭湯を盛り上げる「銭湯再興プロジェクト」にも関わっている。「銭湯がレトロブームではなく、生活の中のカルチャーとして取り上げられるところになるといいな、と。例えば、カフェに行くのと同じくらい身近になって欲しい」

「家風呂は日常。温泉とかスーパー銭湯は週末とか長い休みでいく非日常のお風呂。それを考えると、銭湯は日常の中の非日常なんですよ。家風呂ほど普段使いではないけれど、長い休みほど気合を入れていくところでもない」

「会社が終わってへとへとになった時は、その日ちゃんと眠るために銭湯にいくのもすごくよいですね。パソコンに向き合っているような人たちには、銭湯の中では携帯は使えないから、デジタルデトックスにもなる。働いている人たちには、日々のストレス解消にちょうどいい。明日を迎えるためにいく場所、というイメージで来てくれるといいんじゃないかな」

「今日は寒いね」から人生変わった 「銭湯図解」を生み出した塩谷歩波さん

「建築は建物で風景を変えるけれど、私は絵を通して見る人の頭の中の風景、イメージを変える仕事をしているんだと思う」と語る塩谷さん。絵を喜んでもらった経験を糧に、小杉湯に勤めながら、今年からは「アトリエ エンヤ」の屋号で銭湯以外の絵を描く仕事も受け始めた。

「イラストレーターとして、もと設計をやっていた人間として、新しい挑戦をしないといけないと思っています」

これまでの自分を受け止め、前に進む。銭湯に漂う「優しい気持ち」が、訪れる人を癒やし、勇気づけているような気がします。

(文・福宮智代 写真・林 紗記)

■ 小杉湯 公式ウェブサイト
■ 銭湯図解 Official Website

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