ミシェル・オバマ自伝『マイ・ストーリー』から見る大統領夫妻の子育てPR

世界45言語に翻訳出版され、1000万部を突破した「マイ・ストーリー」は、前アメリカ大統領夫人ミシェル・オバマがその半生を綴(つづ)った自伝だ。シカゴのサウス・サイド地区に生まれ育った自身のルーツ、バラク・オバマとの出会い、そしてホワイトハウスで過ごした8年間についてが、細部にわたって綴られている。

「大統領と大統領夫人」という特殊な立場ではあったが、その職務を離れれば、オバマ夫妻は2人の子どもを育てる父親と母親でもある。
留守がちな夫を持ち、フルタイムで働きながら家庭と仕事を両立させる苦労は、世界中の多くの女性が抱える悩みと共通するものだ。ミシェルは本書で、その葛藤と自らの信念について、要所要所で触れている。

バラク・オバマが、子育てとどう向き合ったのか

不妊治療に取り組み、流産という辛い経験を乗り越えながらも、バラクとミシェルは2人の子どもを授かる。長女マリアと3歳下の次女サーシャだ。
バラクが子どもたちを愛し、献身的に尽くす父親だったのは間違いないが、選挙活動や政治家としての活動には、多くの犠牲が求められる。家族で一緒に過ごす機会も、時間も、プライバシーも時には犠牲となる。
そんな中でも、大統領の仕事を務めるべき適任者は彼以外にいないと信じていたミシェルは、自分の都合や娘たちの都合を優先させることはできない、と覚悟を決めていたようだ。

当初は、夕食の時間を遅らせたり、帰宅する夫にハグさせるために娘たちを無理やり起こしておくこともあった。「今帰ってる」「もうすぐ着く」と言いながらなかなか帰ってこない夫にいらだち、ストレスを溜めていくミシェル。一時は夫婦カウンセリングに通ったほどだったという。
解決策としてミシェルがたどり着いたのは、家庭のルールを決め秩序を守って暮らすことだった。夕食は六時半で、八時には娘たちは眠りにつく。例外は認められず、バラクはその時間に間に合う責任がある。そう決めたことで、ミシェルは夫の仕事の都合に振り回されすぎず、心を乱すことなく過ごすことができるようになった。

《うちは父親の帰りを待ったりしない。家族と過ごすために努力するのが父親の役割なのだ。》

とルールを重んじている。
特に夕食のひと時をミシェルは大切にしていたようで、その習慣はバラクが大統領に就任してからも続いた。夕方きっかり六時半には必ずエレベーターに乗って家族がいる上階に戻り、夕食後はまた執務室に戻って仕事を続ける。

《バラクと私は夕食の間、娘たちの学校の校庭の話や、絶滅危惧種について調べたマリアの研究プロジェクトの話に耳を傾ける。あたかも、それが世界で一番重要な事柄であるかのように。なぜなら実際にそうだからだ。子どもたちの話には、そうするだけの価値がある。》

一方のバラクも、職務との両立を葛藤しながら家族と向き合い続ける。

《騒がしい政治の渦の中、離ればなれの夜でも決して失われないもの、彼はそれを大切にしていた。家族を軽く扱うことなど決してなかった。(中略)まるで毎日、家族と政治のどちらかを選ぶ投票を強いられているかのようだった。》

象徴的な例として、こんなエピソードが紹介されている。バラクがイリノイ州の上院議員を務めていた頃の話だ。
大型犯罪法案の条項をめぐる議論が長期化し、臨時議会の日程はクリスマス休暇までずれ込んだ。やっと議会が終わり、オバマ家は休暇をハワイのオアフ島で過ごしていたのだが、突如議事が再開し、法案可決の投票が行われることになったのだ。
それは銃規制を盛り込む法案で、バラクが熱心に支持してきたものだった。投票ができない、つまり賛成する議員が一人でも減ると、法案通過は危うくなる。
そんな時に、滞在先で1歳のマリアが高熱を出したのだ。

《お互い口には出さなかったが、バラクだけ行くこともできた。すぐに玄関を出て空港までタクシーで、向かえばスプリングフィールドでの投票に間に合う。太平洋の真ん中に病気の娘と不安な妻を残し、同僚たちのもとに戻ってもよかったのだ。それも一つの選択肢だった。(中略)バラクは行かなかった。行くわけがなかった。》

結果、法案は否決され、投票に参加しなかったことでバラクは叩(たた)かれた。当時彼は連邦下院議員選挙にも出馬するという大きなチャレンジの最中でもあったので、対立候補からここぞとばかりに個人攻撃された。「仕事にいかない言い訳に子どもを使うとは」などと言われ、メディアからも厳しく批判された。結果としてその選挙は敗北に終わった。

《優れた決断が彼にこれほどの代償を支払わせる結果になったのだと考えると胸が痛んだ。》

とミシェルは振り返るが、2人ともこの決断は正しいものだったと信じている。それまで過ごした時間の中で、共通の価値観をすり合わせてきたからだろう。

《「家族の大切さについて語る政治家はたくさんいます。あなたの州の上院議員ができるだけその価値観に従って生きようとしている時には、それを理解してもらえればと思います」》

とバラクは週刊誌のコラムで語っている。

大統領就任後、家族はさらに特異な生活に身をおくことになった。娘たちも同様で、世間の好奇の目が寄せられ、通学時は警護車列や武装したシークレットサービスが付き添う。
安全が守られながらも、娘たちが過度な制約を受けずに過ごせるように、自分らしく生きられるように、2人は心を砕く。身の回りの世話をするスタッフに任せずに、毎朝自分でベッドメイクをさせたのもその一例だ。転校初日の朝、バラクが心配そうに娘たちにアドバイスをする場面も微笑(ほほえ)ましい。

《「いつも笑顔で、友達には親切に、そして先生の話をよく聞くこと。それと、絶対に鼻をほじらないこと!」》
 
ファーストファミリーになっても「我が家が我が家のまま」であることを大事にしていた2人らしい、ありのままの家族の姿がそこにはある。

最後に、このエピソードも忘れずに紹介しておきたい。
2012年、コネティカット州の小学校で銃の乱射事件が起きた時のこと。20人の小学1年生と6人の教員が犠牲になった痛ましい事件だ。血の海となった教室の様子について報告を受けたあと、バラクはミシェルを大統領執務室に呼んだという。

《執務中に彼が私に来てほしいと求めたのは、大統領職にあった8年間でこれが最初にして最後だった。私とバラクはスケジュールを調整して、2人きりでしばしの間、ほの暗い慰めの時を過ごした。私たちは普段、仕事は仕事、家庭は家庭と割り切っていた。けれどニュータウンで起こった悲劇は、私たちの、そして多くの人たちの心の中で、あらゆる窓を粉々に割り、あらゆるフェンスを吹き飛ばした。私は大統領執務室に入ると、無言のままバラクと抱擁し合った。言うべき言葉など、ひとつも持たなかった。》

その日バラクは会見を行い、銃の販売に関して法律を制定しさらなる悲劇を防ぐという決意を、涙を流しながら語った。 
大統領として国を思う気持ちと、一人の父親として家族を思う気持ち。そこには同じ思いが通底している。

バラクが娘たちに注いだ愛情は、同じようにアメリカじゅうの子どもたちにも向けられていたのだ。

(文・高橋有紀)

提供:集英社
『マイ・ストーリー』の公式HPはこちら

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