ほんやのほん

てのひらに載るものだけで、じゅうぶん。加藤典洋のまなざし

てのひらに載るものだけで、じゅうぶん。加藤典洋のまなざし

撮影/猪俣博史

『大きな字で書くこと』

村上春樹という作家に、私は二度出会った。

一度目は、村上自身のアイデアによる赤と緑の装丁が印象的な『ノルウェイの森』を読んだとき。私はハルキ世代より少し後の世代であり、この本も数年遅れてから手に取ったのだが、それまで読んだどんな小説とも異なる手触りに驚き、ひきこまれたことを今でも覚えている。

二度目は文芸評論家・加藤典洋の村上春樹についての文芸評論を読んだとき。当時、朝日新聞社が出していたPR誌『一冊の本』(現在は朝日新聞出版が刊行)で様々な文学や思想について書いていて、村上春樹以外にも、加藤さんの手引きでずいぶん多くの作家の名前を知った。

テクストから遠く離れて』『村上春樹論集』『村上春樹の短編を英語で読む1979-2011』そして、『村上春樹は、むずかしい』。村上春樹という書き手に対する期待と厳しい指摘から、読むたびに発見するのは村上文学の新たな輝き。書き手と読み手を橋渡しする文芸評論という仕事に魅了されたのも、この人がきっかけだった。

本書『大きな字で書くこと』は、昨年急逝した加藤さんが死の直前まで書き続けていた連載を中心にまとめられたエッセー集。戦争責任や原発、憲法9条などについての論考など、文芸評論にとどまらない原稿を多岐にわたって書いてきた評論家の足跡をたどる。

幼少期、ほとんど言葉を発せずムッツリしていたため「ムッソリーニ」と呼ばれていたということや、面識の有無にかかわらず引き合いに出される様々な人たちとの魂の交流など、多彩なエピソードにあふれている。

過去の自分に見つめられて

吉本隆明の思考の変遷。全共闘運動と自身の距離。心の底に常にある、文学への畏敬(いけい)の念。なかでも、過去の自分の仕事に対する飽くなき反芻(はんすう)と、戦時中、特高(特別高等警察)だった父の正義に向けたまなざしには、揺れながらも真実を突き詰めようとする、弱くて強い、一個の人間としての加藤典洋という存在が浮かび上がってくる。

中原中也、多田道太郎、橋本治、安岡章太郎、鶴見俊輔、日本画家の秋野不矩(ふく)……。加藤典洋という人を通じて、いまなお豊かに息づく死者の思想に触れることもできる。そしてまた、過去の自分にずっと背中を見つめられているような感覚で仕事をし続けた在り方に、秋山駿、加藤周一といった他の評論家(批評家)たちのたたずまいをも思い出した。

本書のなかで、特に印象に残ったのは次の部分。

知っていることのなかに、知らないことを見つけることは、難しい。知らないことは、決して探して見つかるものではないからだ。
だから、自分は何も知らない、と感じられる瞬間をもてる人は幸運である。自分が小さく感じられるが、それは世界を大きく受け取る機会でもあるからだ。

雨は降らない。けれどもたまに降ると、道路の少し凹んだところが、水たまりになる。
その水たまりの大きさ、ということを私は考えている。手で抱えられる広さと、足で飛び越えることのできる幅をもつもの。そのような大きさで、考えていく。(「イギリスの村上春樹」2018年4月7日)

両手で持ちきれないものを手に入れようとする現代人の愚かさを戒め、掌(てのひら)に載るものでじゅうぶん豊かに生きていけると、やわらかく諭しているようだ。

「小学生の頃は、大きく字を書いていた。それがだんだん、年を重ねるにつれ、小さな字で難しいことを書くようになってしまった」と自省する加藤典洋が、「大きな字」で書くものを、この先も読んでみたかったと心から思う。

がむしゃらに「未来」志向にならず、時には「過去」の自分と向き合い、一度背筋をのばして「大きな字」でのびのびと書いてみること。そこにどんな余白が生まれるか――。深い余韻がくっきりと心に刻まれる一冊である。

(文・八木寧子)

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    新聞社、出版社勤務などを経て現在は書店勤務のかたわら文芸誌や書評紙に書評や文芸評論を執筆。ライターデビューは「週刊朝日」の「デキゴトロジー」。日本酒と活字とゴルフ番組をこよなく愛するオヤジ女子。趣味は謡曲。

    植物の本に癒やされる。いつもと変わらない自然の営み

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