ほんやのほん

過去を捨てた男と家族の物語。……なのか? 深読みの妙味

過去を捨てた男と家族の物語。……なのか? 深読みの妙味

撮影/馬場磨貴

『イエスの学校時代』

シリーズものの本を読むのが苦手でなかなか手が伸びない。理由は全制覇するのに時間がかかるのと、最新刊に追いついたあとで次の新作を待っているのが耐えられないからだ。そういうクチだから「ハリー・ポッター」も「ワンピース」も途中で挫折してしまった。

しかしそんな“待ち無精”な自分でも発売されるのをじっと待っていたシリーズものの続編がある。

J・M・クッツェーの『イエスの学校時代』がそれだ。この作品は『イエスの幼子時代』(2016年発売)の続編にあたり、最終巻である『イエスの死』(邦訳は未発売)へと続く3部作の2作目だ。

前作『イエスの幼子時代』がめっぽう面白かったので、今作も発売前から非常に期待していたのだが、読んでみると予想を裏切らない面白さで、もう大満足である。

続編を紹介するのは少し気が引けるのだが、前作『イエスの幼子時代』を読んでいなくても、十分楽しめる内容にはなっている。物語や登場人物は前作から続いているが、前作の舞台となった街から新たな街に登場人物たちが越してきたところから物語は始まるので、この本から読んでもすんなり入り込めるだろう。

全体のあらすじを簡単に説明すると、過去を捨ててとある国にやってきた初老の男シモンと、シモンが移民船の中で出会った男の子ダビードとの日々の生活の物語である。2人の間に血のつながりはないが、シモンはダビードと一緒に暮らし、面倒を見ることになる。そして2人はダビードの母親だというイネスという女性に出会い、3人の生活が始まる。

混ざり合う現実と非現実

あらすじだけを聞けば、なんてことのない物語のように思えるだろう。むしろ退屈そうな物語のように思えてしまっても不思議ではない。しかし、この物語にはどこか現実味(リアリティー)がなく、それが奇妙な魅力となっている。

そもそもの舞台となる国がどこなのか明かされていないし(スペイン語が共通語らしいのだが、スペイン語圏の国だという確たる証拠となる描写もない)、この国に住んでいる人たちは皆、過去を捨ててきたといわれている。

シモンもダビードも元々は別の名前があったらしいが、それが明かされることはないし、この国にやってくる前に何をしていたかの記憶もまったくない。ダビードの母親だというイネスも、本当のところは母親なのかどうかも定かではない。

それなのに現代の社会と同じように文化は発展していて、人々は何不自由ない生活を送っている。今作でダビードはダンス・アカデミーに入学するのだが、ダンス・アカデミーなるものがその国に存在していることが妙に違和感をともなって映るのである。

そういう風に、現実と非現実が非常にうまい具合に混ざり合っているのがこの作品の特徴である。

クッツェーは『マイケル・K』『恥辱』で2度ブッカー賞に輝き(これはその当時史上初の快挙だった)、2003年にはノーベル文学賞も受賞している。つまり超がつくほどの大御所である。

経歴だけを見ると難しそうな小説を書くイメージがあるが、実際は非常に読みやすく、ぐいぐいと読ませる作家である。しかも力の抜きどころを熟知しているのか、不思議と平易な文章の中からでも豊潤なイメージが湧き起こってくる。物語全体を貫く禅問答のようなシモンとダビードの会話もウィットに富んでいて、読んでいてまるで本当の家族のような愛らしささえ感じる。

そう、これは移民として過去を捨てた男がゼロから家族を築く物語なのだという見方もできる。題名にもなっているイエスがダビードのことを指しているのは間違いないはずだが、彼がなぜイエスなのか。それは聖書的な背景もあるのだろうから、それを想像しながら読んでみるのもまた楽しい。とにかくそういう深読みの余地を残している作品である。

この本を読めば、第3作目にして完結編の『イエスの死』の発売をどんなに時間がかかろうとも待ちたいときっと思うはずだ。

(文・松本泰尭)

     ◇

海外の小説


  •    

    やってられない? 痛快ミステリーがくれる心のスパイス
       

       

    やってられない? 痛快ミステリーがくれる心のスパイス


       


  •    

    未来の幸福な読者のために。3冠作品『紙の動物園』
       

       

    未来の幸福な読者のために。3冠作品『紙の動物園』


       


  •    

    いつの間にか、小説の思惑通りに…… 未知の感覚を味わう一冊
       

       

    いつの間にか、小説の思惑通りに…… 未知の感覚を味わう一冊


       


  •    

    男のふりして南北戦争に参加した妻の話。『ネバーホーム』ほか
       

       

    男のふりして南北戦争に参加した妻の話。『ネバーホーム』ほか


       


  •    

    自分がいる世界と海外文学の世界は地続きだ。『ピュリティ』
       

       

    自分がいる世界と海外文学の世界は地続きだ。『ピュリティ』


       

  • シリーズの楽しみ


  •    

    私立探偵・沢崎が14年ぶりに復活。『それまでの明日』
       

       

    私立探偵・沢崎が14年ぶりに復活。『それまでの明日』


       


  •    

    北村薫作品は、おいしい芋がぞろぞろである。『中野のお父さんは謎を解くか』
       

       

    北村薫作品は、おいしい芋がぞろぞろである。『中野のお父さんは謎を解くか』


       

  • >> おすすめの本、まだまだあります

    PROFILE

    蔦屋書店 コンシェルジュ

    そのとき一番おすすめの本を、週替わりで熱くご紹介します。

    ●代官山 蔦屋書店
    間室道子(文学)
    ●二子玉川 蔦屋家電
    岩佐さかえ(健康 美容)/北田博充(文学)
    嵯峨山 瑛(建築 インテリア)/中田達大(ワークスタイル)
    松本泰尭(人文)/柴田あすか(デザイン)
    ●湘南 蔦屋書店
    川村啓子(児童書 自然科学)/藤井亜希子(旅)
    八木寧子(人文)/若杉真里奈(雑誌 ファッション)
    ●柏の葉 蔦屋書店
    大川 愛(食)

    松本泰尭(まつもと・やすたか)

    人文コンシェルジュ。
    大学卒業後、広告代理店などメディア業界で働いたのち、本の仕事に憧れて転職。得意分野は海外文学。また大のメジャーリーグ好き。好きな選手はバスター・ポージー。

    本当のニーズのありか。 あなたや私の仕事の価値は

    一覧へ戻る

    五感に訴える写真と小説。書棚の一等地に置きたい、特別な本

    RECOMMENDおすすめの記事