東京の台所2

〈212〉料理はすべて弱火。昆布だしは2倍。個性光る彼のごはん

〈住人プロフィール〉
会社役員・41歳(男性)
分譲マンション・1LDK・東急東横線 中目黒駅
入居10年・築年数10年・妻(40歳・会社員)との2人暮らし

     ◇

 食を軸にした企画運営会社を経営している。大学中退後はカフェでバイト。就職した会社では、飲食店の立ち上げ業務を担う。つまり、20年あまり飲食業に関わってきた。また、料理が得意な母の影響も少なからずあり、もともと料理好きときている。

 だから11年前に結婚して食べてくれる相手ができ、念願のオープンキッチンにしてからはいっそう料理に熱中した。週末は5~6時間台所の椅子に座って、作り置きをするらしい。

 当初、こだわり派の料理好きな男性、くらいのつもりでいた。ところが台所をよく見ると驚くことが多い。取材していくうちに、かなり個性的な食の哲学を持つ人だということがわかった。

 まず、料理は弱火でしかしない。
 強火でジャッと炒める中華などはほぼ作らない。

 吊(つ)り戸棚からはだし類が次々と15袋以上出てくる。鰹(かつお)、昆布、しいたけ、焼きあごと多彩なうえ、とりわけ昆布は産地や等級別に何種類もある。

 「こっちのだしはふだん使いでスーパーで買います。奥井海生堂の昆布は伊勢丹で。ここぞというときの料理に使う、僕にとっては特別なだしです」

 ポン酢やたれやドレッシング、スパイスは20~30本はあろうか。たれは、観光の折にふらりと立ち寄った京都大原の味工房 志野のそれが目下のお気に入りである。
 「志野さんは、素材の味を引き立たせるし、種類もこだわりもすごい。たとえばピリ辛ポン酢なら、おだしだけで炊いた料理に最後ちょい足しするだけでうまいですよ。豚や豆苗やねぎなんて最高です」

 行きつけのカレー屋やレストランで、おいしいドレッシングやスパイスと出会うと分けてもらったり買ったりする。お気に入りのラーメン屋ではラー油を入手。

 思わず、これふたり暮らしで使い切れますか?と尋ねた。
 「使っちゃいますねえ、ホームパーティーも多いですし、だしはこれだけあっても何カ月も持たない。京都の板さんに、料理がうまくなるコツを聞いたら、“昆布だしだけは2倍使え。ここぞというときは3倍でもいい”って言われて。いまもずっとその言葉が胸にあります。だから昆布に限らずだしはものすごい使います」

 素人はごちゃごちゃ言わず、とにかくだしを倍量使えばたいがいうまくなるとは、明快で名言だ。
 弱火オンリーのきっかけもまた、シンプルだった。
 「15年ほど前にたまたま仕事でル・クルーゼの鍋を使ったことが始まりです。ル・クルーゼって弱火が基本でしょう? そこからゆっくり作る、じっくり煮込む料理が好きになりました」

 そうか。私も持っているが知らなかった。

〈212〉料理はすべて弱火。昆布だしは2倍。個性光る彼のごはん

時短料理の素朴な疑問

 彼いわく「スパイス愛が半端ないご夫婦が作っている」朝岡スパイスの小瓶が、シンク上にずらりと並ぶ。油にスパイスの旨味(うまみ)を移すようなつもりで、弱火でじっくり熱する。そこに新鮮な野菜や肉、魚をくわえると、もうそれだけであれこれ足さなくてもおいしい一品になるという。

 「骨付き肉にしょうが、にんにく、青ネギ、にんじん、玉ねぎを加えて煮込み、だしを作っておくと、アレンジもききます。弱火で手羽元なら30分、手羽先なら60分かな」
 平日多忙な彼にとって週末、半日かけて10種ほどの作り置きをするひとときはかけがえのない貴重な時間だ。そもそも、「ゆっくり作るのって、そんなに大変じゃないですよ」と意外なことを語る。

 「時短料理とか、圧力鍋で簡単にっていうけれど、余った時間でみんな何しているのかなあって思うんです。僕は弱火でコトコトやっているときが、わりと思考の整理になっている。仕事のことや、その日あった人間関係の気付きや反省、アイデアが浮かんだりします」

 もうひとつ、弱火料理の理由があった。仕事で関わる食はつねに、効率や原価、すぐ出せるものなど必ず何らかの制約がある。
 プライベートの料理にはそれがない。

 「何も考えず、自由に思いきり時間をかけて集中できる。それが大きいかもしれませんね」
 だしを勉強し始めたのは、仕事相手のシェフと対等に話をしたかったから。
 人生の軸足は仕事にあるが、けしてそれだけが中心ではない。大好きなスパイスや鍋が並ぶ台所で、じっと仕上がりを待つ自分たちのための料理が、自分の活力源になっている。

 ところで長時間料理は、“作ったら完成”ではないらしい。
 「作っている間に自分は香りや味見をして堪能しているけれど、妻はできあがったのを見て、『わあいい香り! おいしそう』と新鮮に驚いてくれる。相手がいて料理が完成するんだなと思います。そういう人がいると、やっぱり楽しいですよね」
 仕事も暮らしも手を抜かず楽しむ、新しいタイプの経営者に出会った気がした。

〈212〉料理はすべて弱火。昆布だしは2倍。個性光る彼のごはん
 

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    • 大平一枝

      長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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    • 本城直季(写真)

      1978年東京生まれ。現実の都市風景をミニチュアのように撮る独特の撮影手法で知られる。写真集『small planet』(リトルモア)で第32回木村伊兵衛写真賞を受賞。ほかに『Treasure Box』(講談社)など。

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