鎌倉から、ものがたり。

湘南から東京へ いつか見たドーナツ屋の夢の続きを ベイクショップ「Chigaya 蔵前」

藤沢市辻堂で人気の「Chigaya Bakeshop(チガヤ・ベイクショップ)」のオーナー、鈴木ちがやさん(33)は昨年12月、東京都台東区の蔵前に新しく「Chigaya 蔵前」を開いた。

(→辻堂編から続きます)

 蔵前界隈(かいわい)は、調理関係の器具をそろえる「かっぱ橋道具街」にも近く、名前の通り食品や総菜店が並ぶ「おかず横丁」を擁する下町。赤いギンガムチェックのカフェカーテンを窓にめぐらせ、ドーナツを看板商品にしたベーカリーカフェは、そんな下町の中で可愛らしさがひときわ目立つ。

 建物は、上階をホテルに改装できるつくりになっており、1階にカフェ、上階にホテルの部屋……と、次の目標であるホテル経営も視野に入れている。

 とはいえ、ここは辻堂からは電車に乗って1時間以上の距離。

「私にとって、土地勘があるわけでなく、親しい人がいるわけでもない場所でした」と、本人も認める通りだが、とにかく「ピンと来た」のだという。

 蔵前の位置する台東区や、隣接する墨田区は、近年「セントラルイースト東京」と称されて、注目度がとみに高まっているエリア。古い建物や街並みのリノベーションが盛んで、そこから独自のライフスタイル・カルチャーを発信している点で、まさしく辻堂とも通じている。

 鈴木さんの直感的なひらめきと、それを実現するビジネス力は、10代のときに経験したある出来事がベースにある。

 中学から長距離選手として頭角をあらわし、陸上の強豪校だった高校に進学。卒業後は実業団に所属が決まり、アスリートとして将来を嘱望されていた。

 ところが、高校3年のときに思わぬ運命に見舞われた。飲酒運転による交通事故に巻き込まれ、瀕死(ひんし)の重傷を負ったのだ。一命はとりとめたものの、大腿骨(だいたいこつ)を骨折したことで、アスリートの道は絶たれた。

「10代にして、人間の命には限りがあることを身をもって知りました。だったら、一瞬一瞬を悔いなく生きよう。自分がやりたいと思ったことは、すぐに行動を起こしていこう。そのように、肝に銘じたのだと思います」

 挫折から立ち直った彼女は、大学で英文学を専攻し、同時に尊敬するスタイリストのもとでアシスタントを務め、ニューヨークで舞台衣装のコーディネーターという仕事を手に入れた。すべて自分が望み、切り開いてきたことだ。

 そのニューヨークでの仕事も、日本でカフェオーナーになることを決めたときに、あっさりと手放した。彼女にとって仕事とは、自己表現を媒介するものであり、ひとつの形には決してこだわらない。だからこそ、次のステップに歩みを進めることができる。

 前に行く強さと同時に、鈴木さんが語る自身のエピソードは、インスピレーションにも満ちている。

「あるとき、徹夜で商品をつくっていたら、意識が遠のいて、不思議な夢を見たことがありました。私はどこか外国にいる太ったおばさんで、ドーナツをつくって、お客さんに手渡している。となりには、夫らしきおじさんがいて、一緒にお店を切り盛りしている。これは私の前世に違いない(笑)。ですから、ドーナツ屋さんこそが、私の天職だと信じているんです」

 50歳になったら、海に近いおだやかな街で、地元の人たちに愛されるベイクショップを営みたい――ニューヨークにいたときから、そんなことは、よく考えていた。辻堂という海街でその夢をかなえたのは、予定よりもはるかにはやい20代のときだった。

「辻堂の店を大切に思う気持ちは、ずっと変わりません。でも私はホテルもつくってみたいし、ベイクショップも多様な形で展開したい。だったら、体が動くうちに東京でも勝負をしておくべきだな、と」

 つねに夢の原点に戻り、そこから未来への一歩を踏み出す。蔵前の店は、湘南と東京を結ぶだけでなく、彼女ならではの生き方が込められた場所なのだ。

Chigaya 蔵前
〒111-0054 東京都台東区鳥越2-8-11
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    PROFILE

    • 清野由美

      ジャーナリスト。1960年、東京都生まれ。東京女子大学卒。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修士課程修了。英ケンブリッジ大学客員研究員。英国留学、出版社勤務を経て、92年にフリー。先端を行く各界の人物インタビューとともに、時代の価値観や感覚、ライフスタイルの変化をとらえる記事を「AERA」「朝日新聞」「日経ビジネスオンライン」などに執筆。著書に『新・都市論 TOKYO』『新・ムラ論 TOKYO』(隈研吾と共著・集英社新書)、『ほんものの日本人』(日経BP社)、『観光亡国論』(アレックス・カーと共著・中公新書ラクレ)、&w連載「葉山から、はじまる。」を1冊の本にまとめた『住む場所を選べば、生き方が変わる――葉山からはじまるシフトチェンジ』(講談社)など。

    • 猪俣博史(写真)

      1968年神奈川県横須賀市生まれ。慶応義塾大学商学部卒業。卒業後、カナダを拠点に世界各地を放浪。帰国後、レコード会社、広告制作会社勤務などを経て1999年にフリーに。鎌倉、葉山を拠点に、ライフスタイル系のほか、釣り系媒体なども手がけ、場の空気感をとらえた取材撮影を得意とする。本連載のほか、&travelで「太公望のわくわく 釣ってきました」の執筆と撮影を担当。神奈川県三浦半島の海辺に暮らす。

    幸せの直感に身をまかせ 辻堂の「Chigaya Bakeshop」

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