上間常正 @モード

変革に挑戦し続けた現役デザイナー 惜しまれる高田賢三のコロナによる“早世”

パリを拠点に世界的ブランド「KENZO(ケンゾー)」を築き上げた創始者デザイナー、高田賢三さんが10月4日、パリ郊外の病院で亡くなった。9月10日に新型コロナウイルスの感染による合併症で入院して治療を受けていたという。81歳だった。ファッションについてあまり関心のない人でも、森英恵さんと並んでその名を知っている人は多いだろう。

変革に挑戦し続けた現役デザイナー 惜しまれる高田賢三のコロナによる“早世”

高田賢三さん(2016年、パリ)

賢三さんは1939年、兵庫県姫路市生まれ。生家は姫路城の北にある花街の待合だった。2017年に出版された自叙伝『夢の回想録 高田賢三自伝』の中で「座敷から小粋な長唄や三味線の音色、芸者の嬌声(きょうせい)がほのかに聞こえてくる。友禅、紡(つむぎ)、縮緬(ちりめん)……。私は和箪笥(わだんす)や押し入れにしまわれた鮮やかな反物や毛糸玉で遊んでいるのが好きだった」と書いている。

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『夢の回想録 高田賢三自伝』の出版記念パーティーであいさつする高田賢三さん(2018年4月、東京・丸の内のパレスホテル)

20年近く前にインタビューで創作の発想源を尋ねた時、「うん~」と言ってしばらく考えた後で「やっぱり子供のころに家にあった布や毛糸で遊んだこと。もう一つは大人になって、船で1カ月かけてフランスに渡った時の体験かな」と答えたことを思い出す。

文化服装学院を卒業してアパレルメーカーに入社。デザイン画を描く仕事で腕を磨いたが、憧れのパリを見るために半年間の休暇をもらって1964年11月末に横浜からマルセイユまでの客船で出発した。香港を皮切りにアジア、インド、中東、アフリカ各地の寄港した街で多様な人々の暮らしぶりや、着ている民族衣装の多彩な色使いなどを見た。「後になって考えてみると、それが大きかった」と続けて語った。

貯金したお金では船の片道切符しか買えず、パリだけではなく見聞を広めるためにヨーロッパ各国を回ったり帰りの切符を買ったりするために、デザイン画を描いてパリの有名ブティックやブランドのアトリエに売り込んだ。それが意外な評判となり、結局そのままパリに住んで活動を続けるきっかけとなった。自伝でも「船旅の各地で吸収したすべてをたたきつけるようにして数十枚を仕上げた」と書いている。

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新作発表のため一時帰国した高田賢三さん(1978年)

デザイン画が評価されたのは、1960年代半ばという時代変化の流れが背景にあった。若者を中心に若者を中心に自由を要求し反体制を掲げる声が高まり、68年にはパリで五月革命と呼ばれた社会の保守的な体制の変化を求める街頭での直接的な運動がフランス全土に広がった。ファッション業界はそうした動きを敏感にとらえ、富裕層だけを相手にしたオートクチュール(高級注文服)から大量生産でもっと安く変えるプレタポルテ(高級既製服)にビジネスの重点を移そうとしていた。それに応える新たな才能を探していて、賢三さんの絵に大きな可能性を感じたからだろう。

時代の大きな潮目の変化に自分の作風が合ったという、ツキのよさもあった。デザイン画だけではなく服作りも始め、70年4月に「ジャングル・ジャップ」という店を開店。1階のフロアで約50点の服をモデルが着て歩くショーを観客に見せ、それもまた大きな評判を呼んだ。この方式はその後、パリやミラノのプレタポルテコレクションの先駆けとなった。服は鮮やかな色と模様、ゆったりしたシルエット、それでいて各地域の風土に適した機能性の高さが特徴的で、当時アメリカのヒッピーたちが着ていた民族服スタイルともよく似ていた。彼がパリで目指したのは「女性が一人でメトロ(地下鉄)に乗るための服」だった。

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パリに「ジャングル・ジャップ」をオープン、評判を呼んだ(写真は1978年)

ショーはその後、大きな会場で多数の観客を招くにぎやかで楽しいやり方に広がり、ウマやゾウなどが登場するほどになった。そんな子供っぽい資質と、興味をもったものには後先を考えずにお金をつぎ込んだり、ルーレット賭博や占いで大金を浪費したりするようなデモーニッシュ(悪魔的)な過剰性を併せ持っていた。経営難からLVMHグループにブランドを売却し、ついにはケンゾーから99年に追われるように離れたのもそうした資質が引き金になっていた。

99年10月7日に開かれた、賢三さんがデザインする最後のショーは、トップモデルのほか約200人の友だちがモデルとして友情出演、300点もの作品を2時間もかけて見せる大スペクタクルだった。

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ケンゾー2000年春夏作品

まるでサーカスみたいに、人が乗った空飛ぶ絨毯(じゅうたん)が宙を舞ったり、花、雪、ジャングル……をテーマに場面が早変わりしたりで、取材を忘れて楽しいお祭りに引き込まれるような気分になった。ショーの後で「怒ったり悲しんだりするよりも、大勢で目いっぱい楽しい気分で終わりたかったから」と語った。

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高田賢三さん(手前)最後のショー。ケンゾー2000年春夏コレクションのフィナーレで、モデルたちに囲まれる

だが、こんなエピソードもある。最後のショーから数カ月たった頃、何の取材だったかよく覚えていないがパリ中心部に近いバスチーユの賢三さんの自宅を訪ねた時のこと。周囲と同じでなんの変哲もない建物だが一足入ると、日本の植木と板で出来た数寄屋風の広大な景観、部屋も数えきれないほど。そこに住んでいるのは料理係の青年と門番兼執事みたいな仕事をしている熟年男性だけ。何よりも印象的だったのは、家中に漂う孤独感に満ちた静けさだった。

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20年間暮らした和風の邸宅で、庭園に面した茶室に座る高田賢三さん(2009年)

相対立する要素を賢三さんは心の中に幾層も秘めていた。平面性と直線裁ちという手法でパリの伝統服と切り結び、大きな影響を与えて認めさせたのは、自身の内にある対立要素が生み出すパワーだったのだと思う。99年の後はしばらく不調の時期が続いたが、2004年のアテネ五輪でユニクロとデザイン提携した日本選手団の公式ユニホームは、シンプルな軽やかさの中に自由への強い意志が感じられる優れたデザインだった。

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アテネ五輪開会式で日本選手団が着用したユニホームを、高田賢三さんがデザインした。写真は、都内で開かれた発表会(2004年6月)

今年でデビューから50年だった。この春にはインテリアのブランドを立ち上げ、意欲を見せていたという。コロナによって命を奪われることは現役デザイナーとしてはさぞかし無念の思いだっただろう。賢三さんは現代ファッションの変革に大きく寄与したが、それから約半世紀たった今、変革の必要性はさらに高まっているからだ。その先駆的な業績はもっと見直されるべきで、特に若い世代から彼の大きな夢と努力を受け継ぐデザイナーが続々と出てきてほしい。

「いつまでも夢をもって挑戦を続けたい」との賢三さんの言葉が、今でも心に強く残っている。

PROFILE

上間常正

ジャーナリスト、ファッション研究者。1972年、東京大学文学部社会学科卒、朝日新聞社入社。記者生活の後半は学芸部(現・文化くらし報道部)で主にファッションを担当。パリやミラノなどの海外コレクションや東京コレクションのほか、ファッション全般を取材。2007年に朝日新聞社退社、文化学園大学・大学院特任教授(2019年3月まで)としてファッション研究に携わる。現在はフリーの立場で活動を続けている。

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