東京の台所2

〈221〉突然始まった里親生活。乳児に振り回される日々もまた楽し

〈住人プロフィール〉
音楽家・30代後半(女性)
賃貸マンション・3LDK
入居1年・築年数約20年・夫(30代後半、会社員)、里子(0歳)の3人暮らし

(注:子どもと里親家庭のプライバシーを守る観点から、駅名を含む一部の個人情報を伏せています)

    ◇

 音大卒業後、6年のヨーロッパ留学を経て、帰国後は現代音楽家として国内外を飛び回っていた。日本の語学学校で知り合い、ヨーロッパの別の国への留学を経た夫とは、33歳で結婚した。

 スパイスの効いたインドネシア料理やスコッチウイスキーを、夜遅くまでふたりで楽しむ。休日は好きなときに起き、寝るのは毎晩零時過ぎという気ままな生活を送っていた。

 しかし、不妊治療で子どもを授からない体質とわかり、ふたりは東京都の里親制度への登録を決意する。彼女は語る。
 「里親には、養育里親と養子縁組里親などの4種があります。養育里親は、法的な親子関係はなく、一定期間子どもと暮らしを共にします。後者は戸籍を入れ、実子として育てます。私たちは不妊治療時代から、この先の人生もけっこう長い。どう暮らし、どう生きていくかとことん話して、養子縁組里親という選択をしたのです」

 昨年、児童相談所に問い合わせた。以降、種々の勉強会や研修、面談を重ねた。里親候補として選ばれると、夫婦で乳児院に通い、寝かしつけからミルクのあげかた、お風呂の沸かし方まで細かく習う。ときには泊まり込みの面会交流もある。座学と実習の両方が、養育を始める前に必要だ。

 「学校勤務もしているので、私にとって子どもといえば、学生のイメージ。0歳児なんて触れたこともなかったのです。まったくわからないことだらけだったので、一つ一つが新鮮で、勉強になりました」

 研修や家庭訪問を受け、東京都の児童福祉審議会の里親認定部会で審議された結果、都知事に里親として認定されると、ようやく里親登録できる。現在は希望する里親家庭が、里子よりはるかに多い。

 「2、3年は待たなきゃだなと思っていたら、登録の数十日後にこの子の里親になれることに。大慌てで、近くの団地から広い居間のあるマンションに越して、赤ちゃんグッズをそろえました。職場にも、里親登録をしたけどいつになるかわからないと話していた私が、いきなり育休なので驚かれました」

 登録からまもなく里親になれたレアケースを喜ぶ間(ま)もなく、赤ちゃんがきたその日から、生活は見事に180度ガラリと変わった。

 「早起きの子で、我が家にきた翌日、4時に起こされて。ふだん私たちは8時に起きていました。それからまる3カ月、毎日4時起きでした」

 そう、本当にある日突然、ふたりは0歳児の親になったのである。

〈221〉突然始まった里親生活。乳児に振り回される日々もまた楽し

仕事の締め切りと育児で倒れそうに

 台所は2、3人立てそうなほど広い。背面一面にシェルフを置き、何がどこにあるか一目瞭然だ。半分は、粉ミルク類、離乳食、乳児用の薬など赤ちゃんグッズでしめられている。

 「それまで夫は、料理は作れないって言い切ってたんです。でも子どもがきたらあまりに大変すぎて、私は“あれはできないこれはできるなんて悠長に線引きしている場合じゃないよ”って、バトルになりました。それ以外にも、もっと協力してと何度も話し合った。鍋も含めてすべてしまいこまず、オープン収納にしたのは、彼が家事をしてもわかるようにするためです」

 話し合いのたびにふたりの共通認識は高まり、彼も赤ちゃんの世話をイーブンにこなし、夫婦の食事をよく作るようになった。とくにパスタを研究、毎回とてもおいしいんですよ、と彼女は顔をほころばせる。

 突然始まった育児には、難所がいくつもある。
 集中力を要する作曲の仕事は、子どもを寝かしつけてからしかできない。待ったなしの育児に締め切りが重なったときは、失神しそうなほど体に堪(こた)えた。
 「コロナでコンサートが休止になり、海外公演もなんとか免れました。が、この子のためにも、作曲の仕事はやめようかと考えているところです」

 留学してまで会得した生業(なりわい)をそうかんたんに手放すのはもったいない。が、そう判断したくなるくらいに、乳児の子育ては気力と体力を使う。とりわけアラフォー世代にとってのそれは重労働である。彼女も睡眠がとれず、自分の食事は後回しになる日が続いている。

 「離乳食と調乳に精いっぱいで、大人は冷凍食品をチンして食べる毎日です。今まで存在に気づかなかった冷凍、レトルト、缶詰、離乳食などをスーパーで購入し、世の中にはおいしさや価格の安さではなく、“便利”という基準で買い物をしたい人たちのための商品がこんなにあったのかと驚き、心底助かっています」

 野菜の種類も初めて知った。「じゃがいもにもいろんな種類があるんですね。うちの子はメークインとキタアカリなら食べるんです」

 虐待など子どもをめぐるニュースに大きく動揺する。こんなに自分はセンシティブだったのかと、それもまた発見であった。夫に対してもそうだ。

 「彼は子どもに優しいし、根気強い。これは大きな発見でした。家中子どものものばかりで、台所もしっちゃかめっちゃか。子どもに振り回され、毎日があっという間に過ぎてゆきますが、確実に生活が楽しく、明るくなりました。日々成長する存在を間近に見られることは大きな喜びです」

 スパイシーな料理も、夜中の映画も、シンプルな大人のインテリアもしばらくお預けだが、髪を振り乱してあやすこの瞬間を愛(いと)おしんでいる。

 取材当日も乳児の世話に手いっぱいで、「部屋を片付ける時間もなくて散らかっていてごめんなさい。お出ししようと思ってた焼き芋も失敗して硬くなっちゃって」と、化粧っけのない顔で何度も頭を下げる。

 いえいえ、ありのままの台所でいいのです。でも、なぜいまこのいちばん大変な時期に応募を?
 「じつはまだ試験養育の期間で、私たちがこの子に試されている。万一のことがあったら、親になれないので、この子と暮らした記録を残したくて応募しました」

 黒目がちで、きらきら大きな瞳の可愛らしい赤ちゃんだった。彼女と少し似ているように見えた。

 里親制度を解説したホームページにこんな言葉が紹介されていた。
 『家族とは、「ある」ものではなく、手をかけて「育む」もの』。(日野原重明)
 ふたりは毎日精いっぱい手をかけ、あふれるような愛で育んでいる。それを感じるうちに赤ちゃんが「家族」に似てきたのでは、なんて考えすぎか。こんなこともあったねと、子どもと3人で本連載を読み返す日が来ることを願っている。

〈221〉突然始まった里親生活。乳児に振り回される日々もまた楽し

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本城直季さん、初の大規模個展

「東京の台所2」でおなじみ、フォトグラファー本城直季さんの初の大規模個展「本城直季 (un)real utopia」が、市原湖畔美術館(千葉県市原市)で開催中です。
※展覧会は緊急事態宣言の発令を受け、会期を短縮し、1月8日(金)で終了しました。

会期:2020年11⽉7⽇(⼟)~2021年1⽉24⽇(⽇)
休館日:月曜(月曜が休日の場合は翌平日)、12月28日(月)~1月4日(月)
開館時間:平⽇10:00~17:00、土曜・休前⽇9:30~19:00、日曜・休日9:30~18:00
(最終入館は閉館時刻の30分前)
料金:⼀般800円、学生・高校生・65歳以上600円など
展覧会公式サイト

【本物? ジオラマ? 広がる不思議な風景。フォトグラファー本城直季さん、初の大規模個展】
(作品の一部をご紹介しています)

PROFILE

  • 大平一枝

    文筆家。長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)など多数。HP「暮らしの柄」。
    <記事のご感想・メッセージはこちらへ>
    http://www.kurashi-no-gara.com/

  • 本城直季(写真)

    1978年東京生まれ。現実の都市風景をミニチュアのように撮る独特の撮影手法で知られる。写真集『small planet』(リトルモア)で第32回木村伊兵衛写真賞を受賞。ほかに『Treasure Box』(講談社)など。

    公式サイト
    http://honjonaoki.com

    スタジオ兼共同写真事務所「4×5 SHI NO GO」
    https://www.shinogo45.com

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