古書店主だった父の足跡を追って 「昔日の客」
文: 吉川明子

かつて東京・大森にあった古書店「山王書房」。店主の故・関口良雄さんが1953年4月に馬込文士村のあったこの地に開店し、1978年3月末に25年間の歴史を閉じた。
「山王書房」と良雄さんは、文学好きや古本好きの間では知る人ぞ知る存在だった。店では尾崎士郎、尾崎一雄、上林暁(かんばやし・あかつき)、村岡花子、野呂邦暢などといった文士たちと出会い、古書店主と客という関係を超えた交流があったという。良雄さん自身も、古書店の日常や作家との交流エピソード、自作の詩などを綴(つづ)った『昔日(せきじつ)の客』という随筆集を遺(のこ)している。
この本の制作に携わったのが息子の関口直人さん(71)。かつて「山王書房」があった場所に、「昔日の客」というカフェを2019年9月に開き、妻の素子さん(55)と共に店を営んでいる。
「山王書房があった建物は、約20年前に1階をガレージに、上を住居部分として建て替え、部屋の一室に父が集めた貴重な蔵書や店にあったものを保管していました。このガレージ部分をカフェに改装して、当時の資料などを並べることにしました」(直人さん)
店の入り口は、「山王書房」と同じく昔懐かしい木の引き戸。コンクリート敷きの客席の奥に小上がりの座敷があり、左右の棚に良雄さんの蔵書や資料が並ぶ。文士に親しまれた古書店主の足跡が随所に感じられる空間だが、本人は直人さんに「お前は古本屋をつがなくてもいい。人生は一度だけだから自分の好きなように生きろ」と言い、「古本屋 一代と決め 初市へ」という句も遺していた。
よみがえった「幻の一冊」
直人さんはその言葉どおり音楽の道に進み、現在もフリーの音楽プロデューサーや作詞家として活躍を続けている。別々の人生を歩んだ父子だが、良雄さんの随筆集『昔日の客』に携わったことで、直人さんはいつしか父の足跡に引き寄せられていった。
「父は俳句を嗜(たしな)み、尾崎士郎、尾崎一雄、水野成夫が主宰した同人誌『風報(ふうほう)』に寄稿したりもしていたので、本にするだけの原稿がありました。当初、父は出版に躊躇していましたが、母と僕が『還暦祝いに作ろうよ』と後押ししたんです」
良雄さんは過去の原稿の推敲(すいこう)などに着手したが、その矢先にがんであと1、2カ月の命であることが発覚する。入院後も一冊の自著を作るという夢を抱き、余命宣告よりも数カ月長く命をつなぐことができたが、本の完成を見ることなく59歳でこの世を去った。直人さんはその想(おも)いを受け継ぎ、亡くなった翌年に本を完成させた。
「編集と装丁を買って出てくださったのは、父と親交のあった、元新潮社の編集者で木版画家の山高登さん。父が好んで散歩した大森の曙楼(あけぼのろう)旧門前(かつての料亭)の情景を版画にし、本の口絵として綴(と)じ込んでくださいました」
こうして完成した本は、古書好きの間で話題に。発行部数わずか1000部で入手困難だったことから数万円の値が付き、“幻の一冊”と呼ばれるようになってしまった。
「本が評価されてうれしい半面、実際に読むのが難しい状態だと、父も本意ではないでしょうし、世に出した意味がない。なので、この本を復刊したいと思うようになりました」
同じ頃、縁あってひとり出版社「夏葉社」を営む島田潤一郎さんから、『昔日の客』を復刊したいという手紙が届いた。
「とても丁寧で気持ちのこもった手紙で、島田さんと会って話をしてみると、復刊したい本のイメージもほぼ一致。2010年10月に実現することができました」
初版2500部はあっという間に完売。ピースの又吉直樹さんがメディアで紹介したことも追い風となり、2月には11刷となるロングセラーになっている。
「父の本が再び脚光を浴びたことは本当にうれしかったです。でも、山王書房という古書店は存在しません。父と交流のあった尾崎士郎を中心にした馬込文士村の存在自体を知る人も少なくなってしまった。だからこそ、かつて山王書房があった場所に拠点があればと考えるようになったのです」
馬込文士村のおもかげを伝えて
店内には尾崎士郎が書いた「山王書房」の額や、良雄さんが士郎から形見として譲り受けたたぬきの置物、山高登さんの版画などを飾った。座敷の本棚には、良雄さんの希少な蔵書や作家の署名本、関連資料などを並べ、店を訪れた人が手に取ることができるようにした。
また、タイミングが合えば、直人さんや素子さん、良雄さんの妻・洋子さん(89)から「山王書房」や良雄さんのこと、店に出入りしていた作家の話を聞くこともできる。店をオープンしてみると、『昔日の客』を読んで「山王書房」に興味を持った人や、店に出入りしていた作家のファン、文学好き、かつての客などが訪れるという。

良雄さん(左)と、親交の深かった尾崎士郎の写真
ところで、店名は良雄さんの随筆集『昔日の客』からとっているのだが、これは、芥川賞作家の野呂邦暢(のろ・くにのぶ)が良雄さんに送った言葉だ。
野呂は駆け出し時代に「山王書房」の客だった。欲しい文庫本をたびたび値切って良雄さんに叱られたこともあった。ところが、野呂が家の事情で東京を離れる時に、どうしても欲しかった1500円の写真集を店のカウンターに差し出したところ、良雄さんは500円値引きし、餞別としてくれたという。
その後、芥川賞を受賞した野呂が良雄さんに電話をかけて再会がかなう。野呂が良雄さんに贈った著書『海辺の広い庭』の見返しに毛筆でしたためられていたのが、「昔日の客より感謝をもって」という言葉だった。
「“昔日”って普段は使わない言葉で、読み方もわかりづらい。でも、店名にすることで、人々が“昔日の客”という言葉に出合うことができます。昔日の客もそうでない方も、カフェに来てくださるみなさんが“セキグチの客”でもあるんです」

(左から)良雄さんの妻・洋子さん(89)、店主の直人さん(71)、直人さんの妻・素子さん(55)
■大切な一冊
『昔日の客』(著/関口良雄)
尾崎士郎、尾崎一雄、上林暁などといった作家との交流が深い「山王書房」店主が綴った随筆集の復刻版。作家の素顔が垣間見え、古書店主ならではの客とのやりとりや失敗談も味わい深い、魅力的な一冊。
「復刊するにあたって、旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めました。これから先もずっと読みついでもらいたいと思ったからです。若草色の布張りの装丁、山高登さんの版画の口絵、父の自筆から取った題字や署名など、細かいところまで丁寧に作られていますので、モノとしても魅力的です。父は気取った文章が好きではなく、どんな人にも読みやすくありたいと言っていました。短編集なので、好きなところから自由に読んでみてください」(直人さん)
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昔日の客
東京都大田区中央1-16-12
https://twitter.com/cafe_sekijitsu
(写真・山本倫子)
※連載「book cafe」は隔週金曜日配信となりました。次回は、2021年1月29日(金)の配信です。