東京の外国ごはん

カンボジアとカボチャのおいしい関係 ~アンコールワット(カンボジア料理)

  • 文・写真 宇佐美里圭
  • 2018年1月17日

「カボチャケーキ」カボチャの自然な甘さがおいしい。現地ではもっと小さいという

 まったく知らなかったのだが、一説によると、カボチャという言葉は“カンボジア”から来ているらしい。16世紀、インドシナ半島にいたポルトガル人たちがカンボジアからカボチャを日本に持ち込んできたので、ポルトガル語でカンボジアを意味する「Camboja(カンボージャ)」と呼ばれるようになり、それが次第に訛って「カボチャ」になったとか。

 今回、はじめてカンボジア料理を食べにいくことになり、下調べをしていく中でそんなおもしろい話に出合った。地理的に考えると、タイ料理やベトナム料理に似ているのだろうか。未知の食文化に好奇心をかき立てられながら、その名も「アンコールワット」という名の老舗レストランへ向かった。

 JR代々木駅から徒歩3分ほど。大きな象の置き物が目印だ。ディープな雰囲気ムンムンのお店に入ってみると、中は一転、アジアンテイストのインテリアがかわいらしい。ちょうどお昼どきだったので、ランチセット目当てのお客さんでいっぱいだった。

「アモッグ」(500円)。シャケをココナッツミルクやスパイスで味付けして蒸したもの

 まずいただいたのは、「アモッグ」(500円)という一品料理。キャベツの上にシャケをのせ、ココナッツミルクと8種類ほどのスパイスを混ぜ合わせて蒸したものだ。カンボジアの代表的な高級料理だそうで、現地ではバナナの葉で包み、湖の淡水魚を使ってホウレン草のような野菜を下に敷くという。ココナッツミルクが辛さをやさしく包み込み、とってもおいしい。なんとなくタイ料理などでも食べたことがあるような味わいがした。

 そしてお次が「海老大根もち」(600円)。一見大きめのニラ饅頭のようだが、一口食べてビックリ。中にはぎっしりと大根の細切りが詰まっていた。食べ進んでいくと海老も出てきた。皮のモチモチ具合も最高。こんな料理があるんだ、と思って聞けば、実はカンボジアではあまり食べられないという。

「海老大根もち」(600円)。ぎっしりと大根の細切りが詰まっている

 「オープン当初は現地の味そのままの料理を出していたのですが、当時はまだエスニックブームの前でなかなか日本人に受け入れられなくて。だから少しずつ日本人にも受け入れられるオリジナルメニューを開発していったんです」

 オーナーのゴ・ワンディ(Ngo Vendy)さん(48)はそう話す。もちろん基本はカンボジア料理だが、その時代の日本人に受け入れやすいように、うまくアレンジしているのだそう。最近は昔とは逆で、より「本場の味」を求められるようになってきたので、現地の辛さに近づけたりしているという。

 3品目はお店の人気料理「蟹爪と春雨の炒め」(980円)。春雨を蟹爪と調味料で炒めた、一見シンプルな料理だが、春雨に蟹のエキスや干し海老、醤油、鶏がらスープ、その他いろいろな調味料の味が染み込んでいて、うまみたっぷりで、おいしい! これもお店のオリジナル料理だという。

「蟹爪と春雨の炒め」(980円)。春雨にうま味がたっぷり染み込んでいる

 そしてシメは、忘れちゃいけない「カボチャケーキ」。カボチャのヘタの部分を切って中の種などを取り除き、卵とココナッツミルク、砂糖を混ぜたものを注ぎ入れ蒸して作るデザート。カボチャの自然な甘みが引き立ち、ココナッツミルクのアイスクリームがいい具合にアクセントを添える。思ったよりも甘くなく、体にもやさしいデザートだった。

内戦を生き延びた僕ら家族は運命共同体

 オーナーシェフのゴさんは首都プノンペン出身。日本に来たのは1981年だった。昔は父が輸入業の会社を営んでおり、車が数台、お手伝いさんも何人かいる裕福な暮らしをしていたそうだが、内戦で暮らしは一変。財産はすべて国に没収され、ポル・ポト政権下で家族はバラバラになった。命からがらタイの難民キャンプにたどりつき、家族で難民として来日したのだという。日本に来るまでの話を聞くと、それはそれは壮絶だった。

オーナーのゴ・ワンディ(Ngo Vendy)さん

 カンボジアは、1970年にカンボジア王国がクーデターで倒れ、76年にはクメール・ルージュのポル・ポトが首相に選任されている。69年生まれのゴさんの子ども時代は、ずっと内戦中だった。

 「内戦中はお金もないし、学校もありません。当時のカンボジアでは、子どもは国家の所有物とされていて、親が子どもを教育すると罰せられました。村や政府の役人が子どもを集め、国の思想を叩き込む“洗脳教育”をしていたんです。村で『勉強したい人?』と子どもたちに聞いて手を挙げさせ、“学校”へ連れて行くと、そこで教えられるのは学問ではなく、『親の管理の仕方』や『尾行の仕方』でした。銃を持っているのはほとんどが15歳以下だったと思いますよ」

 ゴさんは当時の状況をそう話す。要は、親子の立場が逆だったのだ。経験や知識があり、資本主義や自由主義の思想を持っている親は、平等を目指す共産主義にとっては悪。だから国はピュアな子どもたちに思想を埋め込み、大人たちをコントロールしようとした。

 「当時は父とよく議論になりましたね。自分も“学校”に行きたいと言うと、父に殴られました。父はその先になにがあるかわかっていたんです。私が『子どもに教育を与えないのはおかしい』と言うと、そこは勉強するところではない、と怒られました」

 ポル・ポト政権下では、都市に住む人々も強制的に農村に連れられ、農業に従事させられた。資本家、教師、医師、弁護士、知識人だけでなく、文字を読める、眼鏡をしているというだけで、処刑の対象にもなった。およそ300万人が虐殺され、4年間で人口が3分の2ほどになったという説もある。

 ゴさんの父は輸入業を営んでいたので、すぐに目をつけられ、牢獄に入れられた。家族はもちろんバラバラに。しかし幸運にも、父は生き延びることができた。

 ある日突然、ゴさんが村の長屋で眠っていると、軍用車が止まり、「今すぐ荷物をまとめろ」と言われて連行された。「これですべて終わりだ」と思ったが、着いたのは軍部の村だった。そしてそこに父がいたのだ。他の家族もその村に集められ、久々に家族一同が再会した。

 「父はお人好しなのか、うまく人を使う才能があるのか、なぜか軍部の人と仲良くなっていて、村では人気者でした。だから家族を呼び寄せられたのです。しかも村では、料理人になっていました。それまで料理なんて家では全然やっていなかったのでびっくりしましたね。食べるのは昔から好きでしたけど……生命力が強い人だなあと思いました」

難民としてゼロから築いたこの場所で、日本への恩返しと祖国のために

 内戦が一段落すると、ゴさん一家は親戚と一緒に国を出ることを決意。もちろん、かなり危険な行為だった。途中でつかまったら反逆罪で殺される可能性もある。それでも父は、「この国にいては未来がない」と国外脱出に命運をかけた。

 そして一行は、タイへ向かっていたときに水先案内人に密告され、捕まってしまう。たまたま以前住んでいた村に近かったので、「タイに逃げようとしていたのではない。昔住んでいた村へ行こうとしていたのだ」と主張したが、全員監獄に入れられた。幸運だったのは、その村の村長が仲のいい人だったこと。彼は事情を知らなかったにもかかわらず、軍の尋問で話を合わせてくれたため、ゴさん一行は間一髪で釈放された。

 しばらくは村にとどまっていたが、ゴさんたちは再び脱出を敢行。そしてなんとか全員無事にタイの難民キャンプまで辿り着くことができた。そこで1年ほど出国の順番を待ち、一家はようやく日本へ行くことができた。

 そのとき一役買ってくれたのは、父の仕事仲間の日本人の親友だった。父は以前、日本のタイヤや車、ベッドマッドなどの代理店も務めていた。商談でよく日本にも行っており、そうした縁から彼が保証人となってくれたのだ。

 その友人の助けもあり、来日してから1年後にレストランを開くことができた。レストランにしたのは、ゴさんの父が「大好きな日本に恩返しの気持ちを込めて、カンボジアの食文化を紹介したい」という思いがあったから。また、昔のような大きなビジネスは異国の地では簡単に始められないという事情もあった。

 当初は父がメニューを決めて母が料理をすべて作り、経営は二人三脚で行っていた。子ども5人を食べさせるために必死だった。ゴさんたちも学校が終わると店にきて、できることを手伝った。

 「母と父が厨房で、子どもたちが配膳や会計を担当していました。でも、子どもだからよくわからなくて、伝票のつけわすれもしょっちゅう。いつも混んでいた割には売り上げが少ないから『なんでだろうねえ……』って言っていたんですが、僕らが書き忘れていたんです。半分弱くらい漏れていたんじゃないでしょうか。よく怒られていました(笑)」

 家の手伝いのかたわら、ゴさんは勉強も怠らなかった。学校教育を人生ではじめて受けたのは、もちろん日本に来てから。日本語もわからずつらい思いもしたが、高校では猛勉強して、東京都の交換留学生に選ばれ、ニューヨークに短期留学したこともある。英語のスピーチコンテストでは全国大会で2位を取り、最終的には首席で卒業。指定校推薦を受け、青山学院大学経営学部へ入学した。卒業後は企業に就職をしたいと思ったこともあったが、家族のことを考えるとできなかったという。

 「1人の人生と7人の人生は重みが違うんですよね……。内戦を生き延び、日本に難民として来た僕ら家族は運命共同体です。姉や妹は高卒で、カンボジア人と結婚したので日本語はあまりできません。私だけ大学に行かせてもらって、その上さらに好きなことを続ける決断はできませんでした。両親も日本語があまりできないし、僕が抜けると家族の負担が大きくて。自分の好きなことを優先すべきじゃないと思ったし、就職せず店を継いだことに後悔はありません。常にベストの選択をしてきたと思っていますよ」

 お店で働くスタッフは全員がカンボジア人だ。ゴさんたちがビザを用意して招聘し、住まいと食事を提供して雇っている。そこには常に祖国の人たちを助けたい、という思いがある。

 「カンボジアは発展途上にあります。このお店でまじめに働いてお金を貯め、それを元に新しいビジネスをして欲しいんです。実際、ここで働いた人の6、7割はその後成功しているんですよ。懸命に仕事をして、頑張って貯金して成功したという話を聞くとすごくうれしいですね」

 すでに多くの人がカンボジアから日本の「アンコールワット」で、ひと回り大きくなって国へ帰っている。難民としてゴさんたちがゼロから築き上げたこの場所が、オープンから36年の月日を経て、カンボジアへ新しい風を送り続けているのだ。

>>大きな象が目印。気になる店内の写真はこちら

■アンコールワット
東京都渋谷区代々木1丁目38-13 住研ビル1F
電話: 03-3370-3019


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PROFILE

宇佐美里圭(うさみ・りか)編集者、ライター

宇佐美里圭

1979年、東京都生まれ。東京外国語大学スペイン語学科卒。在学中、ペルー・クスコにて旅行会社勤務、バルセロナ・ポンペウファブラ大学写真専攻修了。ワールドミュージック誌、スペイン語通訳、女性誌、『週刊朝日』編集部を経て、『アサヒカメラ』編集部。料理研究家・行正り香さんの書籍を多数手がける。ラテン音楽、山、ワインが好き。

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宇佐美里圭(うさみ・りか)編集者、ライター

宇佐美里圭

1979年、東京都生まれ。東京外国語大学スペイン語学科卒。在学中、ペルー・クスコにて旅行会社勤務、バルセロナ・ポンペウファブラ大学写真専攻修了。ワールドミュージック誌、スペイン語通訳、女性誌、『週刊朝日』編集部を経て、『アサヒカメラ』編集部。料理研究家・行正り香さんの書籍を多数手がける。ラテン音楽、山、ワインが好き。

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