東京の台所

<168>帰国直前にパリで見たテレビ番組が人生の転機に

  • 文・写真 大平一枝
  • 2018年5月16日

〈住人プロフィール〉
輸入業、料理教室主宰(女性)・35歳
分譲マンション・1LDK・小田急小田原線 経堂駅(世田谷区)
築年数44年・入居7カ月・夫(通訳・翻訳業・38歳)、長女(0歳)と3人暮らし

    ◇

人生を変えた契機その1~フランスのドキュメンタリー番組~

 「お金も仕事も家も、なんのあてもないけど。……日本に帰ろうか」
 「うん、そうだね。帰ろう」
 結婚1年目。28歳の彼女が、30歳の夫に切り出すと彼は迷いなく賛同した。

 パリに来て9年が経っていた。カフェで働く夫は東京出身、彼女は広島である。
 建築史の研究者になるためパリに留学。大学卒業後は、フランスの教育機関グランゼコールに進んだ。
 だが、エリートと呼ばれる現地の人々についていけず疲弊し、1年で退学。バイト先のカフェで知り合った彼と27歳で結婚。1年後、ふと漏らした一言を機に、ふたりで帰国を決めた。

 帰国直前、2人でなにげなくテレビを見ていた。
 「たまたまパリで食材を扱う女性バイヤーのドキュメンタリーをやっていて。ひとりひとり生産者に直接会いに行き、自分の目と舌で確認して、食材をレストランや販売店に紹介する。生産者からエンドユーザーのお客さんまで、全部人でつながっている。私は食が好きで人が好き。人と関わりながら働きたい。なんてすてきな職業だろうと思いました」
 朝起きると「今日はなに食べる?」という会話から始めるくらい食が好きな夫も、食い入るように見ていた。シニア世代に見えるその女性のはつらつとした笑顔がまた印象的だった。

 とはいえ、日本でどんな手順でそのような仕事をできるようになるのか見当もつかない。食材を輸入するインポーターという職業に近いようだが、そのときは現実味がなく、まずは東京・田端のワンルームに住み、就職活動を始めた。
 「いくつかまわるなかでやっと美術史を扱う出版社に内定をもらったのですが、自分が朝から晩までそこで働く姿がどうしても想像できなかった。そのとき考えたのです。日本で働いた経験のない自分が毎日、通勤電車に揺られて働けるか? 同じ働くなら、人と関わり合いながら、本当に自分が好きで頑張れることを職業にしよう、と。それで、お断りして、就活をやめました」

 彼も同じ気持ちで、就活をやめ、フリーランスの通訳・翻訳家として仕事をスタートした。

 彼女にとって頑張れる仕事。それが、インポーターだった。
 「フランスの食品を輸入したい。理由はまず、自分が取り寄せたいくらい好きだから。オリーブオイル、ビネガー、マスタード……。フランスには基本の調味料で素晴らしいものがたくさんありますが、まだまだ知られていません。基本のものを中心に、日本に知られていないチョコレートやジャムなど直接生産者と取引して、私たちのオリジナルセレクションとして紹介するのはビジネス的にも利点があるのではと思いました」
 では、かつて見たフランスのテレビ番組が人生を変えるきっかけになったと?
 「ああ、そう言われればそうですね。あれを見ていなかったら、今この仕事をしていません」

 夫は通訳と翻訳業を、彼女はフランスの家庭料理教室を主宰しながら、ふたりでインポーターのオンラインショップを開設して5年。レストランやショップなど取扱店も増え、軌道に乗り始めている。次の夢は5年後にフランスで店を持つこと。
 「具体的な夢や展望は、口にしたらかなう気がするので」

人生を変えた契機その2~生存確認の料理ブログ~

 字にすると計画的に見えるが、人柄からも住まいからも、どこか飄々(ひょうひょう)とした旅人のような身軽さが漂う。
 子どもができて、内見した1軒目の古いマンションをその日に即決し、購入。フルスケルトンでリフォームされた、リノベーション物件だ。明るいオープンキッチンに惹かれた。1LDKなので、子どもが大きくなったら買い替えるつもりだ。だから購入後は一切手を加えず、家具はリーズナブルな組み立て式のものが中心である。所有物も少なめで、器も小ぶりの棚ひとつに収めている。

 「今35歳。5年後にフランスで商いをという夢までは決めていますが、その先はなにも決めていません。旅人みたいな気持ちはいつもどこかにありますね。一生は決めず、5年ごとに目標をたてて、それにむかって頑張るペースが自分にはちょうどいいみたいです」

 スタジオを借りて主宰している料理教室の生徒は現在100人いる。料理は独学だ。きっかけは19歳の時からつづっている料理ブログである。
 「離れて暮らしている家族に、元気にやっているよという生存確認代わりに、自分で作った料理をアップしていました。更新しないと、母から“生きてる?”って電話が来るので(笑)。そうやって毎日更新しているうちに、少しずつ読者が増えていきました」

 教室は、フランスの家庭料理を3品、1回4500円。ひと月同じメニューなので、月1回の参加だ。きゅうりのスープや、新玉ねぎのマリネを載せたヒレカツなど、普通のスーパーで手に入る食材で、肩肘張らないフランスの惣菜を教えている。多くの料理ブロガーがそうであるように、料理本などを考えているのかと尋ねた。彼女は笑って一蹴する。
 「私は素人です。プロじゃないからこそ生徒さんに共感してもらえると思っています。だから4500円以上はいただけませんし、料理本なんて出せない自信、100%ありますね」

 パリでは外食は高く、星の付いたレストランなど限られた世界の人だけが行ける特別な場所だった。だが、安い旬の食材で工夫しておいしいものを作るのが毎日とても楽しかった。それは今の暮らしでも同じだ。
 夫と朝起きては「今日なに食べる?」、夜は「明日の晩御飯なににする?」と毎日話す。キャベツが柔らかくて美味しい季節だからお味噌汁に入れよう。冷凍しておいたホタルイカとそら豆で炊き込みご飯を作ろう。冷蔵庫や店先に並ぶ食材をあれこれ頭のなかで組み合わせる。その「食は楽しい」という感覚を、料理教室の生徒は彼女とシェアしたくて通うのではあるまいか。

 こんな人に料理を教わるのはさぞ楽しかろう。
 人、食べること、作ること、働くこと。好きなものが明確な人はぶれないし、強い。

つづきはこちら

東京の台所 取材協力者募集

[PR]

この記事を気に入ったら
「いいね!」しよう

PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

写真

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『かみさま』(ポプラ社)ほか。最新刊は『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)。HP「暮らしの柄」 ■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM

今、あなたにオススメ

Pickup!

Columns