朝川渡る

朝川渡る 「シホの鶏雑炊」  第4話 しなやかな船

  • 文・央橙々 写真・井上佐由紀
  • 2018年5月24日

>>第3話からつづく

 「レンアイ」だなんて、遠い昔に実家の納戸にしまいこんだ日記みたいに青臭い言葉を、あの男は普通の顔をして言った。君を手放さないなんて、そもそもあなた自身が誰かのものなのに。
 愛か、欲か、よすがか、甘えか。あの時の気持ちの正体がわからない。だが、間違いなくひとりでは、ぽきりと折れていた。そうやって自分は、もう永遠に手にとることはないと思っていた日記の表紙のほこりを払い、乾いてカサカサ音のする紙のしわを手の平で大事に伸ばし、新しいインクで2行、3行書き足すように、彼への情を深めていったのだ。家事と育児と仕事の間の刹那で柔らかな隙間に、彼はひゅるりと音もなくすべりこんできた。
 そして昔から横にいたかのように、居酒屋のカウンターで、バーで、銀杏並木の道で、ベッドで。ニコニコと笑い、何千回も唇を合わせた。愛し合ったあといつも、背中からシホを包み、ぐっと引き寄せ肌を重ねたままうとうとする彼のならいが好きだった。
 定年間近になると、携帯電話が身近になった。友達と深酒をした帰り道はきまって彼の声を聞きたくなり、電話をかけた。「おかえりー」という声がうらうらと小春日和のように居心地がよく、心の河がなだらかに流れた。

 明かりの見えない夜のしじまにたゆたう舟の船頭は自分。溺れたら死ぬかもしれない。転覆も前進も後戻りも、全て自分の責任で、どうにか30年、ぎりぎり溺れずに漕いできた。誰も傷つけないことが絶対条件のこの付き合いで、残したい言葉も写真も、絆の痕跡はその都度消し、誰にも言わず、自分の胸に納めてきた。

 愛した証がなにも形に残っていない今、ふと思う。いろんな役割が幾重にも重なって溺れそうになっていた自分の毎日に、ふっとすべり込んできたあの感情は、恋だったんだろうか──。

 定年のとき、再婚しようと言った彼を、妻に返した。母を看取り、30年勤め上げ、子どもは独立し、やっと24時間を自分のために使えるようになった。どんなに愛した人でも、もう誰かの為に自分の時間を使いたくないと心から強く思った。

 阿佐ヶ谷、立川、神楽坂。日本酒に目がないシホは、ネットを見てはどこへでも出かける。カウンターで隣り合った若者と携帯アドレスを交換することもよくある。
 程よく酔っ払った帰りは決まって、誰かの声を聴いて甘えたくなる。そんなとき、欲しい声は女友達ではない。「俺以外の男と飲んだりするなよ」と、もうずいぶん会ってないのに今も付き合っているかのようなできあいの甘い囁きをくれるあの彼でなければいけない。
 70を超えても、飲むと甘えたい女の自分が顔を出す。だから今も、空で番号を覚えている唯一の男に時々電話をかけ、つかのまの戯れを楽しむのだ。

 午前0時。台所いっぱいに、あごだしと鶏のゆたかな香りが立ち込めている。シホは、リズムよく針生姜を刻んだ。
 人生で初めて、自分のために作る鶏雑炊がもうすぐ仕上がる。

(シホの鶏雑炊 ~おわり 次回は6月下旬更新予定です)

    ◇

 短編連載「朝川渡る」が始まりました。

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

 万葉集から、但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

 翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、本連載の企画は始まりました。

 1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが月に1回、連続短編小説として、日常の中の小さな「朝川」の物語を届けます。

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験の ご投稿をお待ちしています。

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PROFILE

央橙々(おう・だいだい)

小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

井上佐由紀(いのうえ・さゆき)写真家

写真

1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
http://donko.inouesayuki.com/
http://inouesayuki.com/

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