東京の台所

<170>スコーンを焼いたある朝の出来事

  • 文・写真 大平一枝
  • 2018年6月13日

〈住人プロフィール〉
会社員(男性・パティシエ)・34歳
分譲マンション・1K・東急東横線 中目黒駅(目黒区)
築年数30年・入居8年・妻(パティシエール・30歳)との2人暮らし

    ◇

 今でも、母の通う家庭料理と菓子の教室になぜついていったのか、よくわからないらしい。

「ギタリストを目指していましたが、ローディをしながらミュージシャンの現実の姿を垣間見て、職業にはできないと実感。大学を2年で中退し、ワーキングホリデーを使ってカナダへ行く直前の暇な時に、ふと面白そうかなと思って、母についていったのです」

 それまで料理に興味がなかった。ただ、母親がいつも「簡単でとってもおいしいのよ」と、とても楽しそうに、食卓で教室のことを話しているのが印象的だった。
「強いて言うなら、もうすぐ海外に行くし、簡単な料理の一つや二つ覚えておいて損はないな。そんな気持ちだったと思います」

 主婦や会社員など女性たちに混じり、20歳の彼は、パスタとスコーンを習った。
「自分でこんなにおいしく作れるのかと驚きました。とくにスコーンは、口に含むとサクサク、ほろほろと溶け、バターの香りが鼻を抜けなんとも幸せで優雅な味でした」

 カナダのホームステイ先には大きな台所があった。数人の留学生仲間とともに、自由に使ってよいということだった。
「いい仲間で、ホームステイ先の家族も温かい人達でした。10歳の男の子がいて、しょっちゅう一緒に遊んでいました」

 住みはじめて間もなく、英語がおぼつかなかった彼は、もっと彼らとコミュニケーションを深めたい、お世話になっている家族にもお礼の気持ちを伝えたいと考えた。
 そのとき思いついたのが、あのスコーンである。
「大きなオーブンもある。朝起きて、おいしいスコーンが焼けていたら、きっとみんなに喜んでもらえるんじゃないか?」

 もしものためにと持参した菓子教室のレシピメモを取り出し、朝5時に起きて、20個ほど、スコーンを焼き上げた。

 バターの甘い香りに誘われるように起きてきた仲間や家族から、「WoW!」と歓声が上がる。
「みんなめちゃくちゃ感動してくれて、完食でした。おいしかった! また作ってと口々に言われ、言葉がわからなくても喜んでいるのが伝わってきた。ホストマザーからは“レシピを冷蔵庫に貼っといて”と言われて、それがまたうれしかったですねえ」

 おそらく、彼がカナダに渡って、人からなにかを頼まれた初めての経験だったに違いない。彼は10年前の朝をこう語る。
「自分が必要とされていると初めて実感できた。忘れられない出来事です」

 その日から2カ月間毎朝5時起きで、スコーンを焼いた。抹茶、ココア、チョコチップ。「今日は何色?」と、喜々とした表情で聞かれた。
 人に喜んでもらうことが自分の喜びになる。働くなら、そういう職業を選びたい。そう考えた彼は、菓子職人(パティシエ)を志す。

 22歳で帰国。洋菓子店で8年の修業を経て、現在は新店舗の菓子店の創業スタッフとして忙しい日々を送っている。修業時代に、同僚のパティシエの女性と結婚。以前から住んでいたワンルームの分譲マンションで、ふたり暮らしを始めた。

 ワンルームに、ベッド、テーブル、クローゼットがひしめきあい、荷物でいっぱいだ。一角には台所もある。部屋の広さに対して、台所の占める割合がやけに大きい。それがこの物件を買う時の決め手だったと語る。

 料理道具をつるすラックや調味料棚を手作りし、いかにも使いやすそうだ。取材中も、「ちょっといいですか」と、台所に立ち、鍋をかき混ぜる。部屋というより、彼は台所で暮らしているようにみえた。

 もちろん夢は自分たちの店を開業することで、仕事でクタクタに疲れて帰宅したあとも、菓子を試作し、2人で研究をする。この日もアプリコットバーズ、ジンジャークリームス、シナモンカップケーキ、ピーナッツアーモンドクッキー、コーヒークッキー、くるみのクッキーが台所のトレーに並んでいた。

 菓子の世界にも、激しい競争がある。嫉妬や焦りの感情に流され、自分の目指す「真心の伝わる家庭菓子の味」を、つい忘れそうになることもあるという。そんなとき、彼を原点に引き戻すのは、台所の中央、一番取り出しやすいキャビネットに挟まれたレシピノートだ。「書かないと覚えられない」という彼の10年前の、日に焼けた古いノート。そこには、10歳の男の子が描いた似顔絵と、みんなを笑顔にしたスコーンのレシピが書かれている。

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PROFILE

大平一枝(おおだいら・かずえ)

写真

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『かみさま』(ポプラ社)ほか。最新刊は『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)。HP「暮らしの柄」』。■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM/

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大平一枝(おおだいら・かずえ)

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長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『日曜日のアイデア帖~ちょっと昔の暮らしで楽しむ12か月』(ワニブックス)、『かみさま』(ポプラ社)ほか。最新刊は『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)。HP「暮らしの柄」 ■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM

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