朝川渡る

朝川渡る 「手風」 第2話 はてしなくかすかな炎

  • 文・央橙々 写真・井上佐由紀
  • 2018年7月10日

>>第1話 四角いご飯 から続く

 3年前、芽生が初めて一人で祖父母の家に泊まった晩のこと。

 意を決して、彼女は夫の布団に潜り込んだ。
「なに、どしたどしたー」と冗談で流そうとする彼にめげず、甘ったるい声を出して背中から腕を巻きつける。そういうキャラクターを演じないと、4年ぶりのセックスなどとうてい切り出せない。

「わたし、なんにもないまま年とるのいやなの。もうすぐ更年期がくるし。そうなったら身体も枯れちゃうかもしれない。わたし達、キスしたのいつかおぼえてる? 芽生が生まれた年のちょっとあとが最後だよ」
「そうだっけ」と、彼は彼女の方に体の向きを変えた。学生の時から好きだった、まっすぐな眼差しが目の前にある。

「私だって仕事の飲み会で、肩を抱かれることぐらいあるんだよ? でも、人妻ですよって言ってかわしてる。ふたりで飲みに行こうって言われたら断るし。なのに、家に帰ると、私はただのお母さんで。あなたまで私のことをママって呼んでさ。芽生のお母さんだけど、私はあなたのお母さんじゃない。こんなの我慢できない」

 だんだん興奮していくのが自分でもわかる。夫は黙りこむ。いつもこれだ。

「ねえ、しようよ。しないなら、私を自由にして!」

 自分でも思ってもみない言葉が飛び出した。彼の目の色が変わる。そっと、ていねいに彼女の腕を戻すと、彼は起き上がった。つられるようにして彼女も布団の上に正座する。彼は真剣な顔で尋ねる。

「自由にって。……どういう意味?」
「そういう意味。芽生とふたりでやってく。あなたとはたまに会ってご飯食べたり、芽生と遊ぶ日を作ったり。憎み合って別れるわけじゃないからいいと思うの」
「待って待って。何言ってんの。話が飛躍しすぎだよ」

 彼女はセックスレスがいかに切なかったか。悦びと無縁で死ぬのがどれだけ悔しいか。更年期を前にどれだけ焦っているか。なんでも持っていると思われ、誰にも言えずに孤独をかみしめていたこと。たかがセックスごときで、これほど悶々としている自分自身に、強烈な嫌悪を抱いていることを一気に話した。この夜を逃したら、自分たちはずっと、都会で働きながら子どもを育てる戦友のままだと思ったからだ。

 途中から、彼の瞳にうっすら涙が浮かんだ。彼女は、虚を衝かれたように、思わず言葉を飲んだ。
 でも、やめちゃだめだ。涙にまかせて、うやむやにしちゃだめだ。最後まで言い切らないと今日の勇気が無駄になる。自分に言いきかせ、とぎれとぎれに言葉をつなぐ。
 黙って聞き終えた後、彼は静かに口を開いた。それはゆらゆら今にも消えそうな目の前の炎を両手で囲い、愛おしむような、やさしく、あたたかな声だった。
「ごめんな、気が付かなくて」

 ああ、と心がほどけた。今すぐその懐かしい胸に顔を埋めたい。わかってもらえたのだ。セックスがしたいのではなく、あなたとしたいのだということを。それだけで、今日、意を決した甲斐があった。
 夫は、ぽつりぽつりと、散った花びらを拾い集めるように、胸の奥から言葉を取り出して、紡いだ。
 不器用な彼らしい、正直な吐露だった。

 会社で、同期より早く昇進したために年上の部下がいる。彼らは問題のある人物が多く、やりにくかったこと。組織から求められる重責に押しつぶされそうになったころのこと。疲れて家に帰ると、彼女が芽生の幼稚園受験で必死になっていて二人のコミュニケーションには入り込めず疎外感を味わったこと。そのうち、受験の状況がわからなくなり、聞くのも面倒に思ってしまった。そもそも君が必死だったから言えなかったけど、僕は芽生は公立でもいいと思っていた。あの年齢で受験がどうしても必要とは思えなかったなど、など。なにをいまさらと、くってかからない妻を見て、彼は深呼吸をした後、さらに正直に告白した。
「君が芽生にイライラしていると、いつも八つ当たりされるから帰るのが嫌で君が寝るまで外でひとりで飲んでたこともあった」

 彼女は、芽生のためを思って頑張ったが、あのとき、夫のことなど一分も自分の心に映っていなかったことに気付かされた。彼が朝どんなシャツを着て出勤し、そのシャツに誰がアイロンを掛けていたのか。クリーニングに出していたんだろうか。夕食にどんなおかずを出していたのか。芽生の模試に付き添いで同行していた週末、彼は何をして過ごしていたのか。ごっそり記憶が抜け落ちている。
 セックスレスは、どちらか一方だけが悪いのではない。ふたりが当事者だ。ふたりで原因を作り、乖離(かいり)を大きくした。だからきっと、ふたりでほころびを直せる余地も大きいはず。
──もっと早く、わかってあげればよかった。
 彼女は、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。彼のことをわかっているようで、なにもわかっていなかった。

 心に小さな灯がともりかけたとき、夫が言った。
「でも、ごめん。もう俺、勃たないと思う。何年か前から、AV見ても何しても勃たないんだよね」
 そこからは実務的な話だ。気持ちがあるなら、今の時代ならどうとでもなる。彼女は一緒に問題解決をしていこうと思った。
「病院に行ってよ。いま、そういう薬、何種類もあって簡単に処方してもらえるらしいよ」
 彼が笑いながら小さくつぶやいた言葉に、心をえぐられた。
「はは、病院って。そこまでして」

 先の言葉を彼女は覚えていない。聞きたくないという本能が、記憶を抹殺したらしい。
 その夜、一つの布団で寝た。彼は穏やかな表情で彼女に腕枕をして。彼女は、遠い故郷を思って。あのとき、東京ではなく地元の大学を選んでいたら、夫に出会っていなかった。そしたら、この先死ぬまで誰にも抱かれないという人生を40歳で宣告されずにすんだのに。病院に通ってまでして妻とセックスをしたくないと笑う男と、一緒に暮らさずにすんだのに。

 しかし、夫婦は厄介だ。一生セックスをしないという宣告を受けてもなお、ふたりで働きながら子育てをしてきた戦友として、彼を嫌いにはなれない。介護があれば最期まで面倒を見てやりたいとさえ思う。
 セックスレスだから別れます、といえるほどふたりで歩んできた道は楽ではなかった。祖父母のいない、右も左も分からない東京で、新米父母としてふたりだけで頑張ってきた時間が今の自分たちをつくっている。セックスレスだけのためにその歳月までも否定したくない。それは自分の人生の否定になる。

 彼は翌朝からいつにもまして明るく穏やかで、優しかった。抱えてきた荷物をおろしてスッキリしたような、晴れ晴れとした態度に彼女はもう一度深く傷ついた。しない、という選択が正当化されたと彼は思っているのだ。その日から、彼女はセックスについてはなにも言わなくなった。生活も態度も変わらない。だが、心の中で何かが大きく変わった。

 女として彼から卒業をしよう。もしも、自分に手を差し伸べる人がいたらもう断るのはやめよう。家庭という船のオールを握りながら、女としての自分も生かしてあげよう。流れをせき止めることはもうやめよう。そう決めた。自分のために。
 だから、彼女は弱り果てた。
 今さら仕事のために夫に握手などできない。触れたくもない。

(第3話は7月11日更新予定です)

    ◇

短編連載「朝川渡る」が始まりました。

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験の ご投稿をお待ちしています。

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PROFILE

央橙々(おう・だいだい)

小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

井上佐由紀(いのうえ・さゆき)写真家

写真

1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
http://donko.inouesayuki.com/
http://inouesayuki.com/

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