朝川渡る

朝川渡る 「手風」第3話 タッチセラピー

  • 文・央橙々 写真・井上佐由紀
  • 2018年7月11日

>>第2話 はてしなくかすかな炎 から続く

 一向に気乗りのしない宿題を抱えたまま、幾日か過ぎた。朝食時、夫がボディソープのふたを最後まで閉めず、中身が流れ出てしまったことに、彼女がくどくどと文句を言った。あなたはいつもそう、と言ったら「いつもじゃないっ!」と返ってきて、口論になった。争いごとが嫌いだった夫自身に、最近、売り言葉に買い言葉が増えてきた。

 と、テーブルで黙ってマーマレードのトーストを食べていた芽生が、トンとミルクマグを乱暴にテーブルに置いた。

 ふたりは黙る。さすがにくだらないことで、やりすぎた。時間もない。出勤せねば。
 芽生が言った。
「ママとパパ、握手して。仲直り」
 気まずい彼女は、食器を片付けながら芽生を促した。
「さ、あなたは学校の時間。忘れ物ない? もう行かなくちゃよ」
「握手して。お友達がけんかしたら、握手で仲直りって幼稚園でも習ったよ。パパとママはおとななのに、できないの?」
「できるよ」
 夫が言った。苦し紛れだった。ここでこじれたらもっと始末に負えない展開になると3人がそれぞれに気づいていた。
「じゃあして?」
「今日の夜にするね。パパもママもまだイライラしているから、一日会社で鎮めてくるよ。夜、仲直りするね」
 芽生はしぶしぶランドセルを背負い、玄関に向かう。と、くるりと振り返り「絶対約束守ってね、芽生、忘れないから」
 娘は本当に忘れないだろう。

 バタンと玄関扉が閉まる音がした。彼女は、小さくため息をつきながらつぶやく。「めんどくさい子」。
 夫はまっすぐ彼女を見て、言った。
「いま、握手しておこう」
「は?」
 ゆっくり手を差し出す。目尻がほんの少しやわらかい。なおもたたみかける。
「手をつないでみようよ」
 タッチセラピーのことを思い出した。握手したら、何か変わるだろうか。彼の身体の一部に、期待するような変化が起こるのだろうか。いや、そんなはずもあるまい。彼女が審判を下すより早く、彼は、妻の手を握り、強い力でぐいと引き寄せ、体を包んだ。頬の温度。すべすべした肌触り。タバコとコーヒーといつものシェービングクリームの匂い。ああ、こんなことで。
 長い指が優しく髪を撫でる。なにも言わず数秒が流れた。夫の抱擁は、いつも海のように居心地がよかったということを思い出した。
 ああ、こんなことで。こんなささやかなことで自分は、濡れてしまうのだと知った。

「よし、行こっか」
 背中を何度かとんとんしたあと、彼は腕をほどいた。
「うん」
 答えた視線の先に、丸めた靴下があった。昨夜脱いだ彼のものだ。それを黙って拾い、洗濯場のかごにいれた。

 駅まで並んで歩く。おはようございます、と同じマンションの住人があいさつをして追い越していく。彼らには、自分たちは仲むつまじい夫婦に見えるだろう。だが、駅に向かうこのたくさんの人々の群れには、昨日の私のようにハグひとつしていない男女がいるかもしれない。
 足りないから、みんなもがく。つながろうとしてときにすかされて憤慨したり、差し伸べた手が照れくさくて、つかめなかったりする。
 彼女はあるきながら自分に問いかける。今の自分たちは、何色なんだろう。マーブル模様から分離してしまったのだろうか──。

    *

 その夜、「パパが帰るまで待ってる」とパジャマ姿で構えていた芽生の前で、ふたりは握手をした。彼は、ギュッと握ったあと、人さし指や中指に力を入れたり弱めたりした。妻の反応を楽しむかのようないたずらっぽい目をしていた。そしていくぶん大きな声で言う。
「ほうらね。ママとパパは仲良しだよ。もうけんかはおしまい」
 芽生は顔をほころばせ、「次、芽生もー」と夫に抱きついた。
 仲良し、という言葉が引っかかった。そんなにかんたんなもの?と。一生、この先セックスがないのに? けれども握手ひとつで気持ちが上がる自分もたしかにここにいる。二色の感情が入り混じり、彼女は戸惑う。

 翌日、手をつなぐ効果についてのレポートを完成させるため、臨床心理士のカウンセリングルームを取材で訪れた。
 郊外のマンションに、心理士の運営する4室があった。その一室に通されると、座り心地の良いカウチ、一人がけのアンティーク風の木の椅子がある。白い壁には、海底に太陽の光がさしこむ絵が飾られている。リラックスして安らげる、落ち着いた空間だった。

 40代後半の、小柄で温和そうな男性が現れ、「ようこそいらっしゃいました。遠慮せず、なんでも聞いてください」とほほ笑む。
 彼の話は専門用語は多いが、細かく解説を加えるのでわかりやすかった。

「心理学の世界では、手をつなぐと痛みが和らぐという実験結果があります。つながる行為には、副交感神経が優位になる効果があり、リラックスできるので、認知症の現場ではとても有効だと思います」

 想定内の回答だ。これなら文献をまとめただけでもわかる。彼女はさりげなく、前日のことを質問に織り込んだ。
「長年セックスレスの夫婦が、握手をするだけで関係性が少し変わるといった事例はありますでしょうか?」
「もちろんあります。手をつなぐことで、心を通わせる生き物は人間だけではないでしょうか」
「でも、長年連れ添った夫婦がいきなり握手をするというのは難しいものですよね、とくにスキンシップの少ない日本人は」
「自立した人間同士であれば、必ずしも手をつなぐ行為をしなくても、心がつながればいいんです。たとえば、目を見てほんとうに大事なところで、あいづちを打つ。何か小さなことであっても“大丈夫?”と声をかける。背中を撫でる、話をしてわかりあうのも、心理学では手をつなぐことと同じ効用があります。それから同じ食べ物を一緒に食べるなどでもつながれます」
「食事が関係あるのですか?」
「最近の進化心理学では、食べ物を仲間と分け合うのも人間だけの特徴で、分け合うときに生じる喜怒哀楽の感情が注目されています。心の安定・不安定、信頼・愛情に深く関わっていると見られているからです」

 四角いご飯をかわいそうだと言った芽生の澄んだ瞳を思い出した。一緒に食べなくても、ふんわりと盛って、傍らにいる。それだけでも、心がつながるのなら、自分は長い間、その機会を放棄してきたことになる。
 愛情を断ち切るか否かの二者択一を考えてきたが、白と黒との間にグレーやマーブルやグラデーションもある。曖昧(あいまい)は悪いことなのか。大事なのは混ざろうとしているのか、分離しようとしているのか、自分の意志の方向によるのだろうか。

 ……やはり、仕事に私情をもちこむと、集中できない。話を適当に切り上げて、彼女は席を立った。
 仕事終わりで疲れているだろうに、最後まで丁寧に応対した心理士に深く頭を下げ、礼を告げる。そして、呼んだタクシーが来るまで数分、立ち話をした。

「この、海の絵、すてきですね。深海かしら」
「この青がいいでしょ。僕も絵が好きでね、だからあなたの会社の企画をお引き受けしたんですよ。コバルトブルーとアンバーを混色すると、パレット上ではきれいなグレーになるんだけど、しばらく放置すると、コバルトブルーの重い粒子が沈殿して、分離するらしいんです。紙の上でもその現象が起き、その働きを利用して、ほら、この絵の水の味わい深い濃淡ができているんです」

 まだ腕に、今朝の夫の穏やかな熱が残っている。
 環境、子どもの成長、ライフスタイル、仕事の忙しさと社会的立場、ストレスの濃淡で、夫婦の色はそのときどきに変わる。でも、ときに沈殿や分離が、熟した色を出すこともある。角度によって異なる色合いに見えることもある。
 駅までのタクシーに揺られながら、ふと思う。
 ──とりあえず、今晩はご飯を炊いて、ふんわり盛ってみようか。

(「手風」おわり)

監修協力:成城カウンセリングオフィス

    ◇

短編連載「朝川渡る」が始まりました。

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験の ご投稿をお待ちしています。

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PROFILE

央橙々(おう・だいだい)

小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

井上佐由紀(いのうえ・さゆき)写真家

写真

1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
http://donko.inouesayuki.com/
http://inouesayuki.com/

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