このパンがすごい!

ベトナム語の看板が出ているプレハブで食す“本物”のバインミー/タンハー

  • 文・写真 池田浩明
  • 2018年7月24日

 半信半疑である。ここがベトナム人街だというのだ。横浜市にある「いちょう団地」。なんの変哲もない団地に見える。歩いていくと、ベトナム語の看板が出たプレハブの建物。目指す店はここであるらしい。よくある団地の風景を、一皮めくると異世界。ドアを開けた途端、アジアが飛び出してきたのだ。

いちょう団地。外国人の比率は約20%に及ぶ

 蛍光灯の薄黄色に染まった極彩色。店の中にはパクチーやミントに、骨つき豚肉に、エビを発酵させた調味料。祭壇に招き猫。空豆みたいな形の果物(タマリンドというらしい)。フォーの乾麺は一体何種類あるんだろう。ずらりと並んだテーブルの上に調味料数種。正体の知れない食料品が山と詰め込まれたこの部屋は、ベトナム人のための食料品店兼食堂なのだ。

調味料。チリソース、マムトム(エビの発酵調味料)など

 では、パンは? それは、百科事典みたいなカバーで覆われたクリアファイルの中に、幾種類ものフォーやナシゴレンやカレーに混じって、ひっそりとあった。

「バイン ミー ベトナムサンドイッチ。ベトナム人が焼いたパンは特別においしいので1回は食べてみてください」

 厨房(ちゅうぼう)からは、小鳥のさえずりか、歌謡曲のように、うつくしい抑揚でベトナムの女性たちの雑談が聞こえる。頼みづらい空気感。そんなとき、テーブルで空芯菜の皮をむいていたベトナム人のお母様と目が合う。「バインミー」と告げると、空芯菜のお母様は、底抜けにやさしい笑顔でにんまりとほほえみ、厨房に向かって「⭐︎⭐︎♨︎♨︎⚪︎×⚪︎×、バンメイ!」とよく通る声で叫ぶ。やはり歌うような抑揚で。

 やがて、やってきたバインミーを見てほほ笑まざるを得ない。クープがそそり立たない、教科書的には失格のフランスパン。これでいい。これを食べにきたんだ。

バインミー

 恐ろしいほど気持ちいい歯切れ。ざくっ。以上。あっけなく、ひと噛(か)みでおしまい。リサイクルのため簡単に潰せるようになったミネラルウォーターのペットボトルをいともたやすく押し潰すときのあの快感。皮は実にばりっとしているのに、中身は真綿のように弱々しく、勢いのついた前歯に簡単に蹂躙(じゅうりん)される。さらに、なますもばりっと音高く。

 じんじんと、襲いかかる刺激の荒くれども。なますの酸味、チリソースの辛さ、ハムに豚肉に、パクチーに。てんでばらばらの個人プレー。なのに、この統一感。旨味のような、南国の香りのようななにかが烏合(うごう)の衆をまとめあげている。五味すべての平和的共存。パックス・アジアーナ。

 味の秘密を知りたい。私はお母様と異文化コミュニケーションを試みる。

「自分で作る。ベトナム人でも味はみんなちがう。うちはおじいちゃん、おばあちゃんが作ってた。いまは私。お肉と魚、ミックスして、絞って(?)、お水だけもらって(??)、赤いの……日本語でなんていう?」

 双方、ボキャブラリーの決定力不足で、大事なところはゴール外に飛んで行った。とにかく、その自家製調味料が味の決め手らしく、ベトナムにいた頃と変わらない作り方で作っている。

「パンは大事です。ベトナム人が作ってます。近くに住んでます。うち以外にその人のパン売ってないです。パンを作る機械、うちが買ってあげました」

 職人を囲い込んでまで、こだわるパン。だからあの一気通貫の歯切れになる。

 文化とは、異国において、そんなふうに大きな代償を払ってやっと維持されるものなのだ。逆にいえば、生まれてからずっと食べて舌に染み付いた味は、どんな代償を払っても食べたい。異国にきてつらい思いをしたベトナム人が、このバインミーを食べ、涙することだってあるかもしれない。

 帰り際、お母様になにか伝えたい。そう思って口をついたのはこんな言葉だ。

「私、パン大好き。あなたが作るバインミー本物」

 そのときのお母様の、また底抜けの笑顔。

「私、すごくうれしいよ!」

 と言って、ドアのところまで追いかけてきて見送ってくれた。店の外にはまた日本の日常があった。

>>続きはこちら

■タンハー
神奈川県横浜市泉区上飯田町3050
045-803-2597
10:00~21:00
木曜休

>>「このパンがすごい!」でご紹介した店舗マップはこちら

PROFILE

池田浩明(いけだ・ひろあき)ライター

写真

佐賀県出身。ライター、パンの研究所「パンラボ」主宰

日本中のパンを食べまくり、パンについて書きまくるブレッドギーク(パンおたく)。編著書に『パン欲』(世界文化社)、『サッカロマイセスセレビシエ』『パンの雑誌』『食パンをもっとおいしくする99の魔法』(ガイドワークス)、『人生で一度は食べたいサンドイッチ』(PHP研究所)など。国産小麦のおいしさを伝える「新麦コレクション」でも活動中。最新刊は『パンラボ&comics 漫画で巡るパンとテロワールな世界』(ガイドワークス)

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池田浩明(いけだ・ひろあき)ライター

池田浩明

佐賀県出身。ライター、パンの研究所「パンラボ」主宰
日本中のパンを食べまくり、パンについて書きまくるブレッドギーク(パンおたく)。編著書に『パン欲』(世界文化社)、『サッカロマイセスセレビシエ』『パンの雑誌』『食パンをもっとおいしくする99の魔法』(ガイドワークス)、『人生で一度は食べたいサンドイッチ』(PHP研究所)など。国産小麦のおいしさを伝える「新麦コレクション」でも活動中。最新刊は『パンラボ&comics 漫画で巡るパンとテロワールな世界』(ガイドワークス)

BOOK

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写真

連載をまとめた「日本全国このパンがすごい!」(朝日新聞出版)が待望の書籍化!北海道から沖縄まで全国の「すごいパン屋!」を紹介。ディレクターズカットを断行、エッセンスを凝縮し、パンへの思いもより熱々で味わっていただけます。
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