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<98>出版社営業マンが始めた本との出合いを楽しむ空間 「余白」

  • 文 吉川明子 写真 山本倫子
  • 2018年9月20日

 人生100年時代と言われる今、60歳の定年後に続く人生は、思っている以上に長いものかもしれない。

「定年で会社を辞めて、というのは絶対に嫌だったんです。気力や体力を考えると、50歳前半までに仕事を変えるべきなんじゃないか。会社の再雇用じゃなくて、自分で決めたかったんです」

 神楽坂にある「BOOK & BAR余白」のオーナー・根井浩一さん(57)は、老舗出版社の営業として働いている時からそんなことを考えていたという。とはいえ、出版社の営業畑から、全く違った分野に飛び込むのはそう簡単なことではない。ただ、本があって、ドリンクや簡単な食べ物を出す店なんかいいんじゃないかとは漠然と思っていた。

「早期退職すること自体は賛成。でも飲食店なんて冗談じゃない! それだけは勘弁して! って思いました」

 そう話すのは、根井さんと一緒にカウンターに入り、店で提供する料理を一手に担っている妻の純子さん。バーは18~23時半の営業だが、水~金の3日だけランチも営業。野菜たっぷりでボリューム感もある家庭の味を850円で提供し、純子さんは開店直後から、この店を運営する上で欠かせない戦力だ。

「妻を説得して懐柔し、今では簡単なつまみにとどまらず、大評判のランチまで完璧に作ってもらっています。夫婦で店をやる上での一番肝心なポイントは妻の協力です!」(根井さん)

「ずっと家で料理を作っていただけなので、はじめはなかなか自信が持てませんでした。でも、夫に『いいんだ。大丈夫だ。後のことは俺がやる』と言われているうちに2年半が過ぎ、最近やっとこれでいいのかもと思えるようになってきました」(純子さん)

 当初は、知り合いが多く、勝手知ったる神保町で店を探していたという根井さんは、神楽坂で散歩をしていたとき、偶然今の物件を見つけて心惹(ひ)かれた。このエリアは飲食店が多く、素人が店を持つにはハードルが高いと感じたが、考えたところで仕方がなく、自分のペースでできることを誠実にやるしかないと腹をくくり、この場所に決めた。

「神楽坂はイタリアンやフレンチはいろいろあるのですが、気軽に食べて飲める店は意外に少なかったんです。それに、単身者や出版関係者が多く住むエリアだったので、そういう人が店に来てくれるようになりました。ラッキーなことが重なっていましたね」

 店はカウンター席のみで、背には壁一面を埋め尽くす本棚。一人でふらりと来て本を読む人もいれば、根井さん夫妻や隣り合った客と会話を楽しむ人もいる。

「ブックカフェで隣の席の人と話す機会はほとんどないけれど、バーならあり。1人で来られても誰かと親しくなって帰っていく姿を見ると、コミュニケーションがふくらむブックバーはいいなと思いました」

 壁面の蔵書は約2000冊。根井さんの蔵書をはじめ、かつて勤めていた出版社のもので根井さんが「ぜひ置いておきたいもの」を揃(そろ)えた。最近は客が本を持って来てくれることもあり、棚から本があふれ出そうな状態だ。ジャンルは“すべて”。文芸、サブカル、社会、人文、自然、漫画とさまざまだ。

「人には興味の癖というものがあります。でも、全ジャンルが揃っていれば、新しい発見もあると思って」

 根井さん自身、この店をはじめて新しい発見の連続だったと振り返る。かつて営業担当としてさまざまな人と接してきたが、それはあくまで“仕事モード”の上でのこと。毎日カウンターに立ち、客と言葉を交わすのとはわけがちがう。

「人の心理や考え、発想は千差万別。たぶんお店をはじめてからのべ1万人以上の人と会ってきましたが、もはや面白いとか楽しいを通り越して、神秘。人間ってすごいです!」

 客の約8割は地元在住だが、1日1組は新たに店を訪れる人がいるという。ランチとバータイムでは「同じ店か!?」というくらい客層が異なり、全ジャンルをカバーする本棚のように、多種多様な人が交わる場所となっている。

 よく客に「おすすめの本はありますか?」と聞かれるが、根井さんは「それはあなたがここで見つけてみてください」と答えることにしている。人によって価値観が異なるし、本との偶然の出合いを大切にしたいとの思いからだ。一方で、カウンター上では毎月異なるテーマで選書したものを並べたり、ツイッターで「読み直したい本100冊」を発信したりするなど、本との出合いを後押しする工夫も行っている。

 定年前に作った小さな空間は、神楽坂という街になじみ、本と人をつなぐ場として機能しはじめている。

おすすめの3冊

■おすすめの3冊

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(著/村上春樹)
村上春樹のはじめての書き下ろし長編小説。「ハードボイルド・ワンダーランド」の章と「世界の終り」の章が交互に進行し、それぞれ世界を異にする一人称の視点で語られる物語。「村上春樹は大好きでほとんど読んでいますが、一番好きな作品がこれ。村上作品が得意じゃない人が読んでも、入りやすいかと。静かな話とアクティブな冒険譚が独特な文体で交互に進み、読んでいて心落ち着く作品なんです」

『文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー』(著/筒井康隆)+『存在と時間』(著/ハイデガー)
超難解なことで知られる、ドイツの哲学者・ハイデガーの大著『存在と時間』を、“文学部唯野教授”こと筒井康隆がわかりやすく解説した一冊。「ハイデガーの『存在と時間』は、ずーっと気になっていたけどまだ読めていなかった本。好きな作家の一人である筒井康隆が、存在することや死についてわかりやすく読み解いていて、これでハイデガーの本に挑戦したいと思っています」

『少年時代』(著/ロバート・R. マキャモン、訳/二宮磬)
舞台は1960年代のアメリカ南部の小さな町。そこで暮らす少年コーリーが、殺人事件を目撃したことから始まる冒険譚。「妻に勧められて読み、ページをめくる手が止まらなくなった一冊です。スティーヴン・キングと並ぶホラーの大家が、少年時代の自身をモデルにして描いた物語で、成長物語でもあり、ミステリーでもあり、さまざまな要素が詰まっているんです」

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Book & Bar 余白
東京都新宿区白銀町1-13 第11シグマビルディング飯田橋 1F
https://twitter.com/yohaku_kagura

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