MUSIC TALK

日本人初の本格的ボサノバ歌手が誕生するまで 小野リサ(前編)

  • 2018年10月23日

撮影/山田秀隆

優しい音色と包み込むような歌声が、聴くものの耳と心をほどいていく――。ブラジル生まれのボサノバを日本に伝え、広めた小野リサさん。ボサノバに魅せられ歌うようになった幼少時代、そして、鮮烈のデビューまでを振り返る。(文・中津海麻子)

    ◇

ブラジルに移住した両親のもとに生まれて

――幼いころ、どんなふうに音楽に触れていましたか?

ちょうど60年前、両親がブラジルに移住したため、私はサンパウロで生まれました。父は、ギタリストのバーデン・パウエルのマネジメントなどをしながら、「ICHIBANI」というライブハウスを切り盛りしていました。ライブにはワルター・ワンダレイといったブラジルの有名アーティストはもちろん、坂本九さんや菅原洋一さんなどの日本のアーティストも出演されました。昼間のバンドのリハーサルを見に行ったり、父に連れられてレコーディングスタジオに見学に行ったり。カーニバルも大好きで、音楽に合わせて踊ったのは楽しい思い出です。

日系の幼稚園に通っていたので、日本の童謡も歌いました。幼い耳には「これが日本の音楽、これはブラジルの音楽」といった違いや区別などはなく、身の回りにある音楽をただそのまま吸収していた。暮らしの中にいつも音楽があった。今思えばとてもぜいたくな環境で育ちましたね。

――10歳のとき日本に帰国されます。

父が、当時東京ではまだ珍しかったブラジル料理を出すライブハウスを出店することになったのです。1972年のことでした。ちょうどチック・コリアがアルバム「Return To Forever」のツアーで来日していて、父のお店「サッシペレレ」のオープニングには、フローラ・プリムとアイアート・モレイラのアーティストご夫妻が来て演奏してくださいました。その後も、中村八大さんのような日本の著名な方、ブラジル領事館や大使館の方々、かつてブラジルに赴任していたという商社の方、初めてブラジル料理や音楽に触れる方……色々なお客さまで、いつもにぎわっていました。ブラジル文化の発信地のような、おもしろいお店でした。

小学生の私はすぐに日本の学校にもなじめましたが、ブラジルを懐かしむ気持ちがむしろ強くなっていって。ポルトガル語を忘れたくない思いもあり、持ち帰ったレコードを何度も何度も擦り切れるほど聴きました。もちろん父のお店に行けばブラジル音楽ざんまい。レコードやラジオも聴きましたが、ブラジルでも日本でも、本場の音楽を「生」で体感できたことはとても大きかったように思います。

「ボサノバを歌っていこう」と決心した瞬間

――自分で歌ったり演奏したりするようになったきっかけは?

家にあったギターを手にした瞬間、「私は歌う」って思ったんです。自分の中でそういうことになった、というか(笑)。それからも、もちろん今も、ギターと歌は切っても切り離せません。父に「ギターを習いたい」と頼んだら、大喜びでした。

クラシックの先生の元に通い、ドレミから始まってコードワークを覚えていって。多くの人が最初にビートルズを課題曲にするように、私はサンバなどブラジルの音楽を練習しました。週末によく親戚が集まっていたのですが、2、3曲弾けるようになると父から呼ばれて、いつも歌の披露をさせられて。それ以外にも父は私をあちこち連れ回しては娘自慢をしていました(笑)。その流れで、自然と父の店でも歌うようになったんです。

20歳の頃。東京・四谷にある父の店「サッシペレレ」で演奏する小野リサさん

――観客を前に歌ったとき、何を感じましたか?

私はどちらかというと部屋の中で一人で歌っていたいタイプ。人前で歌うのは恥ずかしくて、いつも帽子を目深にかぶって伏し目がちに歌っていました。ところがある日、お店で歌ったときにものすごくお客さまたちに喜んでいただけたことがあって。割れんばかりの拍手と歓声に、「自分の音楽が喜ばれた」と実感できた。聴いてくれる人の喜びが自分の喜びにもなると知ったのです。それからは積極的に人前で歌えるようになりました。

楽しかったけれど、悩みもありました。父は私にサンバを歌ってほしいようでした。でも、私には打楽器の大きな音に負けないほどの声量がなかった。エネルギッシュなサンバに声が負けてしまうのです。そんな中、アルバイトで歌っていたホテルのラウンジで、「静かな歌を」というリクエストが。そこで、ジャズ風にアレンジした『イパネマの娘』を歌いました。するとお酒やおしゃべりを楽しんでいたお客さまたちが、その手を止め、私の歌を静かに聴いてくださったのです。

これだ! 私はこのスタイルでボサノバを歌っていこう――。そう自分の中で決めた瞬間でした。

――プロのシンガーとしてデビューしたいという思いはあったのですか?

明確にこうしたいというのはなかったのですが、コマーシャルソングの依頼をいただくようになって。ポルトガル語で歌っていく中で、少しずつ自分がやりたい方向が見えてきたように思いました。

そのころジャズのライブハウスで歌っていたのですが、折しもワールドミュージックのブームがあって。それまでボサノバはジャズ好きの比較的年齢の高い方々が聴くものという感じだったのですが、突然若い人たちが殺到するように。ライブハウスの外にズラーッと行列ができて、一体何が起きたの? って(笑)。そうこうしているうちに、レコード会社からお声がけいただくようになったのです。

デビューのお話もありましたが、レコード会社からは「日本語で」と言われました。ポルトガル語は、英語などに比べたらあまりなじみのない言葉です。でも私にとって、ポルトガル語で歌うことは自分の大切な個性。何より、それが楽しかった。だから、ポルトガル語でデビューできるまでチャンスを待ちました。3年ぐらいだったと思います。

――1989年、全曲ポルトガル語のアルバム『カトピリ』でデビュー。「日本人初の本格的ボサノバシンガー」として注目を集めました。

注目? そうだった?(笑) テレビをあまり見なかったから、実感はないんです。ただ、歌うのがライブハウスから大きなコンサート会場になって、たくさんの方がボサノバを聴いてくださるようになったことは純粋にうれしかったです。当時、バブル経済が崩壊直前で、みなさん疲れていたんじゃないかしら。だから、少し肩の力を抜いたような私の歌が求められたのかもしれないですね(笑)。そもそもボサノバってそういう音楽。頑張りすぎず、心地がよければそれでいい。

ちょうどカフェブームとも重なり、カフェに行けばボサノバが流れていて、オシャレな音楽として受け入れられたと思います。ジャズがあってポップスがあって、その横にボサノバもある――。大好きなボサノバの居場所ができて、本当にうれしかったですね。

(後編へ続く)

    ◇

小野リサ(おの・りさ)

1962年、ブラジル・サンパウロ生まれ。10歳までブラジルで過ごし、15歳からギターを弾きながら歌い始める。1989年、アルバム『カトピリ』でデビュー。“ボサノバの神様”アントニオ・カルロス・ジョビンや、“ジャズ・サンバの巨匠”ジョアン・ドナートなどと共演してきた。99年、アルバム「ドリーム」が20万枚を超えるヒットを記録、これまでに日本ゴールドディスク大賞「ジャズ部門」を4度受賞した。北米、ブラジル、オーストラリア、アジア各国での公演も積極的に行っている。2013年、ブラジル政府からリオ・ブランコ国家勲章を授与されるなど、日本におけるボサノバの第一人者としての地位を不動のものとしている。今年3月、デビュー30周年を記念してJ-POPカバーアルバム第4弾『旅 そして ふるさと』をリリース。アルバムを引っさげて、全国ツアー開催中。来年2月は、ツアーファイナルとして、中野サンプラザホールでライブを開催することが決定している。

小野リサ オフィシャルサイト http://onolisa.com/

【コンサート情報】
LISA ONO 30th Anniversary Tour ~旅 そして ふるさと~ 詳細はこちら

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