朝川渡る

朝川渡る 「蛍の時間」第4話 一人カラオケボックス

  • 文・央橙々 写真・井上佐由紀
  • 2018年10月26日

>>第3話 逃げない人 から続く

 筋肉の張り詰めたすべるようになめらかな体に包まれながら、「やっぱり狂ってる」と、通子は思った。殴る女も、殴られる男も、新たに殴られる原因を作っているであろう自分も。
 いいよ。わかったよ。かわいいよ。そのままでいい。変わる必要ないよ。全部を肯定される言葉の安らかさにつかの間酔いしれていた。だがもしかしたら、あの小さなデジタルの箱の中で育った感情に、温度差はあったのかもしれない。

「ミチカみたいに魅力的な女性を見ると、じっとしていられなくなる。素敵なのに寂しそうな表情だとなおさら。僕ならわかってあげられるのにって思っちゃうんだ」
 ラブホテルで、ぬるくなった缶ビールを飲みながら、自嘲気味にKがつぶやく。ぬるくなったものでもおいしそうに飲めるのは許容範囲が広いからか、それとも鈍感だからか。
 通子の年齢の嘘をも受容したその広さに、今、立ち往生をしている。

「狂ってるからじゃない? Kは、私を大事にしてないしさ、自分も大事にしてないんだよ」
 黙っているKに、さらに爆弾を投げつけた。
「寂しそうなって、私のことずっとかわいそうだと思っていたの?」
 彼がどんな顔をしたかはわからない。すっと立ち上がり、バスタオルをつかんで、風呂場に行った。こうして考えることから逃げて生きていくのかこの人は、と通子は思った。細心の注意で地雷を避けて、調子を合わせてきた歯車がずれていく。

『恋愛感情がなくなりました。忘れてください』
 翌朝7時、目が覚めるとラインが入っていた。昨晩、互いにいつもよりそっけない『おやすみ』のやり取りをしたのは、明日も繋がりが続くと無条件に信じていたからだ。
『どうして? きのうのことは言いすぎました。ほんとにごめんなさい。奥さんのことは二人で考えていこう?』
『私の言葉が足りませんでした。金曜日会って話せないかな?』
『お願い。返事をして』

 膨らむ不安と反比例するように文字数が減っていく。しつこくおもわれたら嫌だ。彼はきっと返事をくれる。
 そう信じて数通目でメールを止めたが、どれも既読にならない。勤務中はスマホは禁じられているのでトイレや給湯室で確認する。10時過ぎに見知らぬ固定電話からの着信が1本あった。ラインをブロックされたとわかったのは、昼休憩のことだった。ネットを見ながら慣れぬ操作の末に、通子の既読を待ってすぐブロックされたと知った。

 奈落の底に突き落とされた気持ちになった。それほど嫌われたのかと思うと、立っていられない。同時に、本当に彼だろうかと強い違和感も覚えた。クリックひとつで関係を遮断するようなことができる人間にどうしても思えない。まして、既読を待ち構えるようにしてブロックするとは。あの着信はKか。妻かもしれないと思うと、安易にかけ直すこともできない。白黒裏返しの妄想は四方八方に膨らむ。

 ショックと焦燥と疑問を一緒くたに抱えながらKからの連絡を待ち続けた。数日後、画面上部の『メンバーがいません』の文字を見て、彼がアカウント削除か携帯を解約したとわかった。

 最後に、とびきりの笑顔を残せなかったことを悔い始めたのは、それから1か月を経た頃からである。ときと共に、悲しみより後悔が勝ってゆく。あのときこう言えば。ああしていなければ……。そして、後悔より勝るのは、慈しみの感情だ。殴られたり引っ掻かれたりしていないだろうか。シリアルバーで食いつないでいやしないか。ちゃんと生きているだろうか。心配の最後にたどりつくのは、いつも同じだ。──ねぇ、あのメール、本当にあなたなの?

 そのうち、ブロックは、ひょっとして自分を守るためではないかと思い始めた。妻はラインを盗み見て、夫のラインから別れの宣言を打ち込んだ。それを知った彼は、いくらおろしふたつを、おいしいねと笑って食べたあの優しさで、のっとられたラインに、これ以上通子が何かを書きこんで、逆上した妻の怒りを飛び火させないようにと、ブロックで防御したのでは。
 だったら会って事情を教えて欲しい。自分がそう信じたいだけなのか、彼はもう会いたくないのか。見知らぬ着信は彼だったのか。いろいろ考えすぎると最後はわからなくなり、振られたという事実だけが、どんどん心を黒く濃く染めてゆく。
 どんな理由でも、一度でいいから会って謝りたい。別れるなら、せめて最後は笑顔の記憶を彼に残したいという願いは増す一方だ。

 淡々と昨日と同じ今日が過ぎてゆく。だが、10カ月前の何も知らない自分にはもう戻れない。秘密を共有する夫以外の男がいる生活と、親友である夫と暮らす生活は、天と地ほどに違う。そこにある差はセックスのある・なしではない。存在を思うだけで今日の傷を繕うことができ、明日生きる元気が生まれる。メール1行で心が満たされる。あなたはあなたのままでいいと、無条件に互いの存在を感謝しあえる。

 この10カ月間、数え切れないほど肯定された。新しいピアス一つももれなく見つけて似合うよと褒める男と付き合い、「ありがとう」を人生で一番口にした。数え切れないほどの幸せをもらったのに、自分は何をしてあげられただろう。病院や警察に妻を突き出すことなど絶対できない人なのに、DVなんて身も蓋もない言葉を浴びせてしまった。
 彼と付き合ってから、仕事場で「ありがとう」が増えた。メイクやファッション、アクセサリーを同僚に褒められたり、どこで買ったのかと問われ、前より会話も弾むようになった。窓口業務への苦手意識も薄らいできたのもそのせいだろう。ごめんね、だけじゃない。Kにはどうしても、ありがとうを伝えねばと通子は思った。

 それから何度も、彼が褒めてくれたワンピースやブラウスを着て、精一杯丁寧なメイクを施し、量販店の前を行ったり来たりした。窓越しに気づいてもらえたら、とにかく最初に笑って手をふろう。そして、これまでに不器用に握りしめてきたごめんねとありがとうを、あますことなく伝えよう。
 私達の関係で、交換できるものは言葉しかないのだから。もう一度やり直そうと言ってもらえるように、自分の足りなかったところは素直に詫びようと決めていた。
 しかし、彼の姿はない。

 Kの好きなノースリーブのワンピースの季節が過ぎようとしていたある土曜日。
 通子は、勇気を振り絞って店に足を踏み入れた。もうお付き合いできなくてもいい。ほんの一瞬でも、目を見て「ありがとう」を言えれば楽になれる。その一心で、手の空いていそうな店員に声をかけ、Kはいらっしゃいますかと尋ねた。
「席を外しております」
 奇異な目で、男が答える。
「カメラを買うときにとても説明がわかりやすかったので」
 相手の不信の色が和らいだ。
「彼は他店に異動になりましたので、商品のことなら私がお答えいたします」
 リモートシャッターについて適当な質問をし、どうにかその場を収めた。
 店員の立ち去ったカメラ売り場で、一眼レフを手に取る。手応えのないシャッターを何度もから押ししながら、もう二度と料理写真を見てもらえないのだと思ったら、たとえようのない絶望に覆われた。

 本当の幕引きは、別れ際の笑顔のような薄っぺらなものではない。絶望と心中して、地の底まで堕ちて、初めて試合終了になる。
 通子は、カラオケボックスに一人で入り、大声で泣いた。ラブホテルが満室のとき、何度かKと唇を合わせたこのカラオケボックスで、自分にけりをつけよう。しっかり堕ちきったら、きっとノーサイドになれる。
 別れてから、声を上げて泣いたのはこれが初めてだ。泣いたら、恋が本当に終わってしまうような気がして我慢してきた。あちこちから聞こえてくる下手な歌に、悲しみがまみれてゆく。

 きっかり思い切り1時間泣いて、水に浸したおしぼりでなんとか腫れた目を冷やし、若い客でごった返すレジで金を払った。45歳、女。一人カラオケで済ませた恋愛終了の儀式は、しめて980円である。

 ふと、視界の端を、見慣れた豆粒みたいな文字がかすめた。
「お客様アンケート。答えていただいた方全員に平日昼間ソフトドリンク飲み放題券を、抽選で毎月3名に、6時間分のチケットプレゼント」の冠がある。
『先月のお題:あなたの好きな場所はどこですか? by 旅行代理店スマイル』
 NY、リッツ・カールトン大阪、バリ島のビーチ、波照間島、ピカソ美術館、直島、実家。花形の付箋に、色とりどりの回答が踊る。チケット欲しさか、カラオケボックス2号館の回答もちらほら。

 豆粒の字は、こう書かれていた。「ミチカの隣」。
 いつのまに──。乾かしたばかりの目がまた潤み始めるのを感じながら、携帯電話を取り出した。あのとき、たしかに全力でつながっていた。その紐の長さや結び方が違っていただけだ。彼が、ほどいて結び直すのを選ばなかったのは、私を守るため。その解釈でいいよねと、豆粒の字に問いかける。

 出会ってから今日までで、一番会いたいと思った。蛍の時間から生まれた感情はたしかに育っていた。それもまた私の確かな現実である。通子は、ありったけのありがとうを込めて、涙でぼやける画面の下の赤い文字に触れ、そっとスライドさせた。守ってくれたお礼に。

 蛍がふっと闇に消えいるように、Kの電話番号がやさしく消える。
 カラオケボックスを出た。高層ビルの合間に浮かぶ仄白い月がけっこうがんばって、交差点を照らしていた。

(蛍の時間 おわり)

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験の ご投稿をお待ちしています。

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PROFILE

央橙々(おう・だいだい)

小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

井上佐由紀(いのうえ・さゆき)写真家

写真

1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
http://donko.inouesayuki.com/
http://inouesayuki.com/

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