朝川渡る

水曜日の青山くん(1)マスタード・ドレッシング

  • 文・央橙々 写真・井上佐由紀
  • 2019年2月4日

連載短編小説「朝川渡る」4人めの物語、「水曜日の青山くん」を、5話にわたってお送りします。

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説「朝川渡る」の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。皆さまのご感想、そして皆さまの「朝川」体験も、ぜひお聞かせください

    ◇

第1話 マスタード・ドレッシング

 カーンと鉄筋の手すりに生協のプラスチックケースの当たる音が聞こえると、横山全子(みなこ)の鼓動はドキンと大きく波打つ。トゥックトゥックトゥックトゥック。ワイドショーのエンディングとともにそこから徐々に心臓が早打ちを始めるのが、彼女の毎週水曜日の儀式だ。

 階下に青山くんがいる。前髪OK、化粧ムラなし、靴下も赤い新品。1階、2階。だんだん階段を上る力強い足音が近づく。最上階の3階にたどり着く9時45分、全子の体温は急上昇する。
「ちわっす、生協です」
 快活な声が、安普請の古マンションいっぱいに響き渡り、彼女は弾かれたように玄関に飛び出した。ところどころ塗料の禿(は)げた傷だらけのスチール扉を開けると、こぼれるような笑顔の青山くんがいる。

 本名は知らないが、おそらく誰に対しても平等に優しくて如才がなく、物怖じをしないその雰囲気が、息子の敦也(あつや)がいた学校の生徒たちとかぶるので、勝手に心の中で息子の母校名で呼んでいる。

 2階の住人で茶飲み友達のよっこさんは「そんな呼び名は嫌味だ」とずけずけ言うが、勝手に命名しているだけで誰にも迷惑をかけていないので、全子は気にしていない。夫の給料では足りず、うんざりするほどぶ厚い添削の内職をこの地域では誰よりも多く担当してやっと捻出した学費で、息子をその学校にやった。全子にとっても自慢の学校なのだ。

「お疲れ様です。こんにちは」
「こんにちは! 今日のキャベツはおいしいですよ。契約農家の完全無農薬です。キャベツの無農薬は稀少です。いつもは減農薬ですから。僕も食べたら驚くほど甘かったです」
「じゃあ、あまり調理しすぎないほうがいいわね」
「そう、レンチンして、マスタードのドレッシングであえてみてください」
「わ、マスタードのドレッシングってどんな?」
「酢とオリーブオイルで混ぜるんです。隠し味はおろしにんにくと醤油を少々」
「おいしそう!」
「間違いない味です。何がいいって、おいしくて、めっちゃ安上がり」

 鍛えあげた二の腕の筋肉がTシャツからはみ出している。こんな腕をした子が敦也の高校・大学時代の友達にもいたっけ。たしかラグビー部だった。
 青山くんはその鋼みたいな腕で、ビールや野菜がたくさん入ったケースを軽々と持ち上げ、階段を駆け上がる。3階建ての回廊に、彼の足音が小気味よく響く。

 商品を全て運び終えた頃を見はからい、全子はいつものグラスを彼に手渡す。
「めしあがれ。梅のクエン酸が疲れを取ってくれるから」
「いつもすみません! 遠慮なくいただきます」
 まるでヤクルトでも飲み干すように、きゅーっとあっというまに手作り梅ジュースが空になる。氷がからりんと涼やかな音を鳴らす。
「うっまいな~」
「う」と「ま」のあいだに小さい「つ」がいくつもある。1週間待ったのだ、この一言を聞くために。ふわんと体も心も浮き上がった。でも、もう少しゆっくり飲んでくれたら、もっとおしゃべりを楽しめるのに。

「ホント、横山さんの梅ジュースは疲れが取れます。って、まだ午前なんで、そんなに疲れてないですけど」
 横山さんの、という言葉に胸がトクンとなった。
「ありがとう。今日はおすすめの料理法なにかある?」
「里芋の柚子胡椒(こしょう)煮はどうですか? 蒸した里芋を、大さじ2杯のだし汁でゆるめた柚子胡椒であえます。シンプルでしょう。これだとしっかり里芋のうまみがわかりますから」
「やってみるね。そういう料理は職場で習うの?」
 あははと、また両隣まで聞こえるような声で彼は笑った。
「まさか! ひとり暮らしですから、そうそう外食はできませんし、もともと料理は好きなんです。学生時代からやってるから。金のかからない料理を考案するのは趣味みたいなものです。横山さんのためにまた来週の野菜料理、研究しときますね。んじゃ、ごちそうさまでした!」

 キーッ、ぱたんと扉が閉まる。
 風のようだな。
 扉をしばらく見つめながら、胸の鼓動がゆっくり収まっていくのを感じる。 
 ほんの数分の青山劇場は、全子の梅ジュースで幕を閉じる。2回名字を呼ばれて、ぽっとなった。

 4カ月前、大きなスーツケースふたつを押しながら出ていった息子は、来年の盆まで帰らないが、青山君は来週水曜日の9時45分にこの扉を開けて必ずやってくる。そして再び真っ白な歯でニッコリ笑いながら私に言ってくれるのだ。「うっっっっっまいっすね」って。

 ひとりくらし。地方出身の大卒。料理が好きで野菜が好き。節約して暮らしている。マスタードを使うようなおしゃれな料理を知っている。自然食や有機野菜、環境に負荷をかけない農業に詳しく、安全で安心な食文化についての知識が高い。少しずつ彼にまつわる情報が増えていくのが嬉しい。

「そんな素敵な子なら、私も太陽マルシェに入ろうかしら。あー、でも、お高いからやっぱりうちは無理だわ。それにみっちゃんみたいに在宅仕事じゃないから会えないし、つまんないもの」
 階下の住人、よっこさんが大げさにため息をつく。隣町の病院でフルタイムの事務仕事をしている彼女はシングルマザーで、中高2人食べ盛りの息子を育てている。ポーションが小さく、高価な太陽マルシェで食卓はとてもまかないきれない。

 そもそも、よっこさんは、オーガニックには一切興味が無い。あるのは青山くんに関する噂話だけである。8歳上の彼女は朝ドラと少女漫画が大好きで、「月9のテイストが変わってテンション下がった」と嘆きつつ、今は朝ドラに、かつてのフジテレビ月曜9時枠の胸キュンの流れを見いだしている。韓流ドラマにも詳しい。

 少々肉付きがよく、おおらかで、いっけん大雑把だが、実は自分の何倍もよっこさんのほうが繊細で乙女であると全子は思っている。胸キュンなエンタメならなんにでも素直に夢中になれるというお得な性格もかわいらしい。そのよっこさんが、あからさまにたきつける。

「みっちゃんさ、今度青山くんご飯とか誘えないの? お昼作ってあげればいいじゃん」

「え~? なに言っちゃってるの。無理無理。きっと、息子と変わらないような年よ? おかしいでしょう、ご飯作ってあげるって」
「敦也くんより年食ってるでしょうよ。生協の配達員と専業主婦の恋ってありじゃん、ありあり」
「専業主婦じゃないから。内職してるから」
 今週は、夫以外の男性とまともな会話をしたのは添削ゼミのスタッフひとりと青山くんだけである。先週も先々週もそうだった。木曜日から日曜日も、この数字は増えないだろう。

 よっこさんは、窓口でいろんな人と話すのだろうな。
 椅子を引くと人が通れなくなる狭い全子のダイニングで、病院から横流しでもらったバウムクーヘンとお茶を飲みながら、ふたりの会話は夕暮れまで続く。
 敦也は今頃、午後の授業が始まった頃だろうか。昼食はまともに食べているだろうか。アメリカのジャンクな食事で、アトピーを再発させてないだろうか。

 4カ月前、留学で旅立った息子と入れ替わりに青山くんが現れ、全子はずいぶんと救われた。ガタイのいい青山くんと、背格好は全く違うのに、顔をクシャクシャにする笑い方ややわらかい人あたり、愛想の良さが息子と重なる。
 そう言うと、よっこさんは全子の赤い足もとを横目で見ながら、いたずらっぽくささやいた。

「でも息子を出迎えるときは、新しい靴下履かないよねえ? ふふ。あんたきれいなんだからさ、もっと化粧したらいいよ。靴下よか新しいファンデーション買いなさいな」
 しみったれたくないだけ。おばさんに見えたくないだけ。靴下を新調した言い訳がたくさん思い浮かぶのに、どれもうまく言葉にできず、バウムクーヘンが変にのどに詰まった。そんな若い子が気になるなんて、気持ち悪いとよっこさんが思わずにいてくれることがありがたい。

>>第2話へつづく

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験のご投稿を、お待ちしております。

>>朝川渡るのバックナンバーはこちら

[PR]

この記事を気に入ったら
「いいね!」しよう

PROFILE

央橙々(おう・だいだい)

小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

井上佐由紀(いのうえ・さゆき)写真家

写真

1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
http://donko.inouesayuki.com/
http://inouesayuki.com/

今、あなたにオススメ

Pickup!