朝川渡る

水曜日の青山くん(5)リーフチョコレート

  • 文・央橙々 写真・井上佐由紀
  • 2019年2月8日

>>水曜日の青山くん(4)白いご飯から続く

 眼の前でよっこさんが、テーブルに突っ伏して笑っている。
「稀に見る夢見る夢男くんだわそれ。よほどまっすぐに育ったんだろうね。でも転職で後腐れがないからってハグするあたり、計算を感じるんですけどー」
「ハグが計算なら、あのタイミングで言わないと思うのよ。なんというか気持ちがもりあがって思わず言っちゃったっていう感じだった」
「そのあとキスを求められたら、してた?」

 全子(みなこ)は黙り込んだ。
 好きだけれど、求められたら拒んでいたのではないか。梅ジュースへの礼が書かれたカードを見て、とうに気づいていた。これは、結婚後の初恋、よっこさんいうところのセカンド・ラブなどではなかったことを。

 誰かを、自分の作るもので支えたかった。喜んでもらいたかったのだ。はしごを外されたように敦也という梅ジュースの飲み手がいなくなり、自分の存在証明を見失いかけた。そのとき、颯爽(さっそう)と次の飲み手が現れた。心の底から喜んでくれる青山くんが。

 ひとしきり笑い転げたあと、よっこさんが尋ねた。
「それでみっちゃん、玄米はやめたの?」
「ううん。でも、試しにおととい白米炊いたら、パパがうまいうまいって2杯お代わりしたのよ。あの人がご飯お代わりするの、10年ぶりくらいに見た。男ってなんで玄米嫌いなのかしらね。玄米と白米と週末にまとめて冷凍すればいいかなって思ってる。私は玄米食べたいから別々のものを食べるしかないわね」

 太陽マルシェの退会手続きをしようと思っていることは、しばらく内緒にしておこう。このタイミングで言ったら、青山くんがいたから気取ったものを取っていたのかと突っ込まれるのがオチだ。

 よっこさんは笑いすぎてうっすら溜まった目尻の涙を拭きながら、少し神妙な顔になって、同卓異食ってさ、と言った。

「結果なんだよね、たぶん。それが離婚の元って言ったけどさ、きっと違うね。元夫は偏食がすごくて生野菜がだめ。納豆や発酵したものも嫌い。好きなものがないとカップラーメンを買いに行くような人だった。でも、同じ食卓でラーメンすすられるのが嫌なんじゃなくて、私はせっかく作った自分を哀れに感じるのが嫌だった。誰かのためっていう犠牲心から生まれる我慢が離婚の種を大きくするのかもね」

 病院のおこぼれの木の葉型のチョコレートをつまみながら、全子は、誰かのために料理をする時間は終わるのだと感じた。終わった役割のひとつ分、自由になる。

 そうだ、私は私の好きなものを食べよう。夫が別に食べたいものがあるなら自分で作るか買ってくればいい。それができないなら、私に合わせてもらおう。犠牲心が芽生えない程度の労力で済むことなら、たまには夫の望むことをしてあげてもいいけれど、それを我慢と思うくらいならやるまい。

 次のチョコレートをふたつまとめて口に投げ入れ、よっこさんは続ける。

「夫との最後ね、玄関まで見送らないからって言ったの。背中を見送るのって未練がましいし、人の背中じゃなくて、これからは前だけ見ていたいじゃない。わかったよじゃあねって、夫が部屋でてってさ。後で見たら、玄関にあった家族の靴が脱ぎ散らかしたままだったのよ」

「うん。うちの玄関なんて、年がら年中そんなだけど?」

「夫はね、ちょっと几帳面なめんどくさい人だったのよ。靴を揃えなかったり、引き出しを最後まで締められない私の雑な性格は嫌だったんだと思う。でも直らないじゃないそういうのって、質(たち)だから。そんでいつも自分が帰ると黙って揃えてたの。それは、今思えば、私の雑さを許してたのね、我慢じゃなくて。けど、一言で言い切れないくらいいろんな理由が重なって離婚を決めて。脱ぎ散らかしたままの玄関を見て、最後は許すのをやめたんだなってわかったのよ」

「ただの我慢と、許したうえでの我慢は、違うの?」

「私は、許してくれるのを知ってたから。我慢は自分を殺して耐えること。許すのは、相手のダメを受け入れることなんじゃない? んで許してくれてるのを知っているのが夫婦でさ、夫婦ってそうやって許し合っていくものなんだろうなーって。どちらかいっぽうが我慢するような暮らしは破綻する。元夫は、ギリギリまで許してくれてたんだなって、玄関の靴で気付かされたような気がする」

 料理を夫のためなどと思ったとたん窮屈な我慢と自己憐憫に変わる。コーヒーでもなんでも自由に飲むがいい。玄米でも白米でも好きなものを食べればいい。彼もまたもっと自由にしてあげよう。別のものを食べたって、同じ卓を囲めば見える景色は同じ。相手の顔、小さな窓からのぞく今日の空、ワイドショーに敦也の噂話。

 私も自由になろう。太陽マルシェをやめたら、必然的に近所のスーパーに行かねばならなくなる。

 なにかを育む時間から、自由を育てる時間へ。全子の人生の夏が過ぎてゆく。
「私、結局、青山くんに敦也の代わりを求めていたのかしら」

 よっこさんはばっさりと否定した。

「気持ち悪いこと言うわね。おしゃれな部屋着も買ってるしさ、みっちゃん、ちゃっかりちょっときれいになってるし。女に還るっていうか、役割をはずれて自由になったっていうか。女の本能で、自分もまだまだいけるってことを確認したかったんじゃないの?」

 ちょっとむっとして、語気が強まる。
「女の本能って。それはないわ、よっこさん。ドキドキして楽しかったけど……。うん、それはない」

「ごめんごめん。じゃあ、女の人生の秋みたいなもので、夏休みが終わって、ふっと自分に何が残っているか知りたくなったのよ。赤い靴下も残ったし、よかったじゃないそれで」

 よっこさんは何でも最後を適当にまとめるくせに、反論を嫌がるので、全子は黙って、茶の葉を替えに台所に立った。

 ここに立ち、手際よく鍋を振り、くるくると踊るようにしながら次々とおいしい料理をつくった青山くんの横顔を思い出したら、きりりりりりと心臓の奥が痛んだ。
 教育熱心な母親が窮屈だったと子どもの頃の話をしながら、私にご飯を作ってくれた。全子はだんだん、あのときの感情に名をつけるのも、それがなんだったのか、定義するのも無意味な気がしてきた。あれは、私が私に還る途中で必要な通過儀礼だった。

 新しい茶を淹(い)れながら、全子は新しい声で言った。
「青山くん、かわいいとこあるのよ、ほらこれ」
 引き出しから、グリーティングカードを取り出す。
『おいしい梅ジュースをありがとうございました』の文字を見て、よっこさんがつぶやく。
「みっちゃんへの感謝状だね」
 なるほどやっぱりうまいことを言う。それは、全子にとって、青山くんが知らない暮らし手としての歳月をもねぎらう感謝状であり、卒業証書のようでもあった。

(水曜日の青山くん おわり)

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PROFILE

央橙々(おう・だいだい)

小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

井上佐由紀(いのうえ・さゆき)写真家

写真

1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
http://donko.inouesayuki.com/
http://inouesayuki.com/

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