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パリ仕込み「モード界の母」 小池千枝さんを偲んで

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  • 2014年8月11日
  • 写真:立体裁断について講義をする小池千枝さん。長野県生まれ。1935年に文化服装学院の前身の文化裁縫女学校を卒業後、母校の教壇に立つ。54年にパリのオートクチュール学校に留学。帰国後は再び学院で後進を指導した=2004年、東京都内

    立体裁断について講義をする小池千枝さん。長野県生まれ。1935年に文化服装学院の前身の文化裁縫女学校を卒業後、母校の教壇に立つ。54年にパリのオートクチュール学校に留学。帰国後は再び学院で後進を指導した=2004年、東京都内

  • 写真:高田賢三 39年兵庫県姫路市生まれ。神戸市外大中退、文化服装学院へ。65年に渡仏、70年パリにブティック開店=パリのアトリエ、大原広和氏撮影

    高田賢三 39年兵庫県姫路市生まれ。神戸市外大中退、文化服装学院へ。65年に渡仏、70年パリにブティック開店=パリのアトリエ、大原広和氏撮影

  • 写真:コシノヒロコ 37年大阪府岸和田市生まれ。故・小篠綾子さんを母に持つ、ジュンコ、ミチコのデザイナー3姉妹の長女。パリや東京のコレクションなどで幅広く活躍=東京のアトリエ

    コシノヒロコ 37年大阪府岸和田市生まれ。故・小篠綾子さんを母に持つ、ジュンコ、ミチコのデザイナー3姉妹の長女。パリや東京のコレクションなどで幅広く活躍=東京のアトリエ

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 5月に98歳で亡くなった元文化服装学院長の小池千枝さんは、戦後の日本ファッションに大きな影響を与えた教育者だった。本場パリで学んだ立体裁断の技術を広め、教え子からは多くの世界的なデザイナーが輩出した。時代の流れの中で、何をどう教え、今に遺(のこ)したのか。教え子のデザイナー、高田賢三とコシノヒロコに聞いた。

立体裁断 教え生きる――高田賢三氏

 初めて先生にお会いしたのは、「男子禁制」を解かれて間もない学院に僕が入った1950年代末。先生はフランス留学から帰国後すぐの頃で、服装などからパリの匂いが濃く漂っていた。当時はヌーベルバーグの映画くらいしかフランス文化に触れられなかったので衝撃的でした。

 先生が着ている服は、ゆとりがあって、肩が丸くて、きれいなしわが寄っていて、これがエレガンスということだと感じた。立体裁断で作られた服のゆとりとドレープを既製服にどう落とし込んでいくかを教わり、それが僕の服作りのテーマにもなった。

 立体裁断を習う前は、製図した型紙を使う方法で、胸のダーツの寸法とか数字ばかり追ってた。先生にいつも言われたのは、「数字を忘れろ。定規は捨てろ」。ボディーに布を当てて自分で考えながら手を動かすことが大事と教えられた。僕がパリ・コレクションに出て、それまで西洋にはなかった感覚のオーバーサイズや重ね着を発表できたのは、立体裁断と平面の和服の両方を知る強みを生かせたからだと思っています。

 先生はいつも授業の前に、仏版「エル」を見せてくれたり、イヴ・サンローランとパリで机を並べていた頃の話をしてくれたりして、それが楽しみでね。「良く遊び、よく学べ」が口癖でその通りにしていました。

 当時よく一緒に遊んだのは61年卒で「花の9期生」と呼ばれた同期のコシノジュンコや松田光弘(故人・ニコル設立者)、金子功(ピンクハウスの創始者)たち。みな絵が上手で都会的だったけれど、僕は地方出身で気後れがあった。そんな時、先生が「きれいなデザイン画の線を描きますね」と励ましてくれた。

 64年に先生のアドバイスで松田君と1カ月かけてパリまで船旅をした。まだ人民服姿ばかりの香港、ビルもなかったシンガポール。アフリカ、スペイン……。どこへ寄港しても、貧しいけれど楽しそうで、色鮮やかな民族衣装があった。その時の実体験からの視点が(代表作風のひとつの)フォークロアルックにつながった。

 先生には、相手にきちんとしてなきゃと思わせるような威厳があった。僕が最近、後進の育成支援をしているのも、先生の後ろ姿に引っ張られているのかもしれませんね。

個性伸ばしてくれた――コシノヒロコ氏

 学院の同窓会・すみれ会の会長を十年ほど務めています。そこで感じるのは、多くのデザイナーやファッション関係者にとって、小池先生は恩師と生徒の関係というより、「仕事上の母」なのだということ。母親が子供をしつける感覚で、厳しくかつ愛情深く、各生徒の個性を伸ばしてくれた。まさにモード界のゴッドマザーのようでした。

 59年卒の私の場合は、縫製が大嫌いで、学校をさぼっては、新宿の店「どん底」で騒いだり、男友達とデートしたり。宿題は、洋裁店を営む大阪の実家に送って縫ってもらってた。でも、先生は決してノーとは言わない。この子は外で遊んで得た情報を教室に持ち込んで、皆に影響を与えてると逆にほめてくれた。普通の学校では、全科目で満点を取るのが優等生だけど、何かひとつでも満点以上を取ることが大事と教えられた。

 卒業後も、海外進出でつらいことがあっても顔を見るだけでほっとしました。教壇に立たれた約50年間、先生を核に生徒が一つになって感覚を磨いた。その中で芽生えたライバル意識が互いの成長に役立っていった。

 先生は日本中に洋裁が広がる中で、デザインの重要性や表現者としての生き方も教えてくれた。どんな体形の人でも、シルエットや素材の質、新感覚のデザインの力によって、着る人の美しさがにじみ出る。そんな知的な服を作りたいと願う私のデザイナーとしての根っこができたのも、先生のおかげです。(編集委員・高橋牧子)

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