山崎亮 〈ハタラク〉をデザインする

仕事は「好き」の後からついてくる 古田秘馬(2)

  • 古田秘馬×山崎亮(2)
  • 2013年9月26日
  

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 何のために働くのか。シアワセを生み出す働き方とは――。そんなテーマのもとに、コミュニティデザイナーの山崎亮さんがホスト役となってハタラク・エキスパートたちとの対話を重ねる、連続公開対談「〈ハタラク〉をデザインする」。8月20日に開催された第2回のゲストは、東京・六本木にある「農業実験レストラン 六本木農園」ほか、さまざまなプロジェクトを仕掛けてきたプロジェクトデザイナーの古田秘馬さん。120分のトークライブの模様を5回にわたって紹介する2回目は、古田さんが20代のころの「シゴト事始め秘話」をお届けする。

好きな分野で走る。仕事はついてくる

古田秘馬 僕はまだ何のキャリアも築いていない頃に、いきなり本を書こうと思い立ったことがありまして。20歳そこそこで雑誌にコラムを書いていたときに、編集者から「なにか著作は?」と尋ねられたんです。そんなのは書いていないと話したら、あれっ?ていう反応で。

山崎亮 あなたは誰だと。

古田 ああ、そういうことなら、僕も本を書けばいいんだ、と思ったわけです。それで、ツテもなく出版社まわりを始めたんですが、誰も相手にしませんよね。何十社も行ったけれど、全然。

山崎 まあ、それはね。

古田 それでも、だんだん企画書というものが必要だとわかってきた。書き方だって、どういう人に向けて何を書きたいのかを打ち出さなきゃ、とか学習してね。そんなこんなで、「若き挑戦者たち」というコンセプトをもうちょっと練って、ある出版社に持ち込んだら、「おもしろそうだから進めてみたら」と声をかけられて。

山崎 よかったですね。

古田 でも、まだ壁があった。今度は取材を申し込んだ相手から、「(その本を書く)あなたは誰ですか?」という反応が返ってきて……。

山崎 本に登場するであろう「若き挑戦者」の方が、ね。

古田 そうそう、お前は誰だと。それでも、何度も断られながら想いを伝えるうちに、インタビューに答えてくれる人が集まってきた。登山家の野口健さん、津軽三味線奏者の上妻宏光さん、4代目の市川猿之助を襲名した、若い時の亀治郎さん……。それぞれの分野でエッジの立った人ばかりで。そこから『若き挑戦者たち』という本は生まれました。

山崎 おお。よかった。

古田 野口健さんはエベレストに登頂する前だったんですよ。たまたま出版する直前に登頂して、時の人になっちゃってね。本はものすごい大ヒットするだろうと思ったわけですが、これがさっぱり。当時、あるタレントの暴露本が何十万部とか売れたのに、こっちは結局のところ、7、8千部しか売れなかった。

山崎 7、8千部といったら、けっこうたいしたもんですよ。

古田 僕の中では、自分は新進気鋭の作家としてデビューするんだ、というぐらいの気持ちでいたから、残念で。でも、またやりたいことが出てくるわけです。椎名誠さんらが編集委員を務めていた大好きな雑誌があって、僕は出したばかりの本を名刺代わりにもって、その版元へ直談判に行ったんです。社長にいきなり「何か一緒にできないですか」と。

山崎 また飛び込み営業(笑)。

古田 はい。そうしたら、社長と意気投合しちゃって、「そんなに好きなら、もう、お前らに雑誌をやる」と。僕らは「生き方創造の雑誌をつくる!」とか、燃えましたよ。でも、どうやら内容が濃すぎたようで、ちっとも売れなかったんですね。それでも、いい出会いはあって、「ソトコト」が創刊されたタイミングだったので、小倉一三さんに「いろいろ教えてください」って訪ねたんですよ。

山崎 また、突然に。教えてくれました?

古田 はい。ものすごくかわいがってくれて。僕らの編集部にふらりと寄って、「どうせ、食えねえんだろ」と、いろいろご馳走してもらったりして。

山崎 それは何歳ぐらいですか。

古田 23歳ぐらいの時でしたね。

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PROFILE

古田秘馬(ふるた・ひま)

慶応義塾大学中退。 株式会社umari代表。雑誌「ポカラ」のプロデューサーなどをへて、 2000年にニューヨークでコンサルティング会社を設立。02年から東京に拠点を移す。現在は、山梨県・八ヶ岳南麓の『日本一の朝プロジェクト』、東京・丸の内の『朝EXPO in Marunouchi』、六本木の『農業実験レストラン 六本木農園』、歌舞伎のブランディングなどを手がける。著書に『若き挑戦者たち』。HP


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