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原川烈子さん(1943年生まれ)

 【山本恭介・27歳】今年春、原川烈子(はらかわれつこ)さん(69)=長崎市千歳町=は被爆体験集「証言2013」の編集をする知人から、「体験を話してくれないか」と誘われた。ためらった。これまで3人の娘にも、語ったことはなかったからだ。

 娘たちはみな体が弱かった。自分の被爆が原因ではないかと思ったが、言い出せなかった。それでも、娘たちが被爆のことを詳しく知らないままではだめだと思い、両親や祖母から聞いた話を原稿用紙に書きためていた。被爆当時1歳8カ月。当時の記憶はない。いつか、読んでもらうつもりだった。

 一方で、数年前から被爆者の高齢化が気になり、「私より下の世代の被爆者はいない」とも考えていた。証言することを決めた。

 7月、体験集の出版を前に、長女に知らせることにした。被爆時の惨状や、被爆を理由にいじめられたこと、娘たちを産んだときの不安をつづった体験記を読ませた。「つらい体験したんだね……」。長女の言葉に、肩の荷が下りた気がした。

 「あの時、烈子は……」

 親戚がお盆や正月に集まると、必ずといっていいほど原爆投下の日の話になった。原川烈子さんは何度も話を聞いたため、「被爆体験が、自分自身の記憶かと思うほど、体に刷り込まれていった」。「烈子は孤児になっていたかもしれなかったんだぞ」と、からかわれもした。それでも最後には、「このことは、よその人には話してはいけない」という言葉で結ばれた。被爆していることが知られれば、差別の対象になるかもしれないと心配してのことだった。

 今も、不思議に感じていることがある。当時の記憶はないはずなのに、原爆が投下される直前に見上げた青空と、遠くにキラキラと銀色に光る爆撃機は思い出せる。その「記憶」が原因なのか分からないが、今でも飛行機が上空を飛ぶと怖い気持ちになる。

 原川さんが語る被爆体験は、その場面から始まる。長崎市稲佐2丁目の自宅の縁側にいた。空を見上げて声をあげた。「テッキ(敵機)、テッキ!」

 声を聞いて、奥の部屋で縫い物をしていた母の満子(みつこ)さんは駆け寄って原川さんを抱き上げた。防空壕(ごう)に続く表玄関へ向かったが、鍵を開けることに手間取った。その時、原爆が投下され、一瞬光った。満子さんはとっさに伏せ、原川さんをおなかに抱えた。爆心地の南約2キロだった。

 玄関のガラスが割れ、家のなかに吹き飛んできた。満子さんは顔や背中など全身にガラスが刺さり、原川さんを守るようにして抱えたまま、血まみれになってその場に倒れた。原川さんは、ただただ泣いていた。

 父の義男(よしお)さんが飽の浦の仕事場から戻ってきた。満子さんの体には、あまりに多くのガラスが刺さり、自分では取ることができなかった。近所の人から稲佐国民学校(現・稲佐小)が救護所になっていると聞き、義男さんは満子さんをおぶって運んだ。原川さんは義男さんの腰に結んだひもをつかんで歩いた。

 稲佐国民学校の救護所で、原川烈子さんの母満子さんは「首の静脈にガラスが刺さっていたら命はなかった」と言われた。ガラスを取り除いてもらい治療を終えたが、しばらくすると、原川さんと満子さんは髪の毛が抜けたり、歯茎から出血したりした。

 原爆投下から3年ほどして原川さんの物心がついた頃、満子さんの体の傷はそのまま残っていた。一緒にお風呂に入ると、引っかいたような何本もの傷口が背中一面に盛り上がって赤く引きつっていた。「こわいなぁ。痛かっただろうな」。一方で、「母がこんなにけがをしたから、私は助かったんだ」とも思った。満子さんは顔にも傷痕が残り、86歳で亡くなるまで消えなかった。

 原川さんも頭頂部と左ひじに傷が残り、ガラスが入ったままだった。当時の記憶がないので不思議な気がしたが、触ると皮膚の下でガラスがコロコロと動くのがわかった。病院に行ったが、「自然に出るのを待ちましょう」。無意識に触ることが癖になった。

 原川烈子さんは1950年ごろ…

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