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宮田修二さん(1929年生まれ)

 2015年の被爆70年に向けて13年に発足した市民団体「長崎原爆の戦後史をのこす会」。その初めての聞き取り調査が同12月24日、長崎市岡町の長崎原爆被災者協議会(被災協)で行われた。様々な体験を語った3人の被爆者のうちの1人が、入市被爆をした宮田修二(みやたしゅうじ)さん(84)だった。

 宮田さんは長崎市飽の浦の実家から、三菱重工長崎造船所の幸町機械工場に通勤していた。しかし、原爆投下時は、たまたまもらえた休暇で、山田村(現・雲仙市)まで食料の買い出しに出かけていた。夜のように真っ暗になった長崎の空。家族の無事を確かめたいと、慌てて戻った翌10日、爆心地付近を通って惨状を目の当たりにするとともに、自身も被爆した。浦上川の両岸に浮かぶ、真っ黒く焼け焦げた何百、何千という死体。「水を下さいと言って自分の足を引っ張った、あのおばさんの顔が今も忘れられない」。記憶をたどる宮田さんの声はうわずり、震えた。

 宮田さんは1929年、三菱長崎造船所の技師だった父清秀(きよひで)さんと母アキノさんの次男として、工場近くの長崎市飽の浦で生まれた。8人きょうだいの4番目だ。両親とも鹿児島市出身の士族の家柄で、宮田さんも「100%、薩摩隼人(さつまはやと)」だ。しかし、清秀さんが幼い頃に両親をなくしたことで、先祖代々暮らした土地を離れていた。

 清秀さんは尋常小学校1年の時、三井物産に勤めていた長兄に連れられて中国・大連に渡った。さらにその後、長崎市に移って勉学に励むと、「長崎の東京帝大」といわれるほど難関だった三菱工業学校に入った。学校は、造船所から給与をもらいながら勉強ができるため、お金がなくて大学に行けない人たちの憧れだった。

 三井物産も長崎市に事務所を持ち、石油・海運業に携わっていた。三菱長崎造船所とも取引があったらしい。「何かの縁があって、三菱造船所に行くように勧められたんだと思う」と宮田さんは事情を推察する。

 宮田さんの自宅は、父清秀さんが勤めていた三菱重工業長崎造船所の立神工場のそば、長崎市飽の浦町にあった大きな一軒家だった。近所で一番大きい家で、戦時中は中庭に、家族用だけでなく隣組用の防空壕(ごう)まで掘られていた。外庭には鶏小屋や畑があり、10羽ほどのニワトリの世話をするのが宮田さんの仕事だった。

 清秀さんは、長崎造船所で極秘裏に進められた戦艦武蔵の建造にも携わっていたらしい。生活は厳しく監視され、午前7時過ぎに家を出ると憲兵が待っていて会社に同行し、帰りは特高警察がついてきた。巨大戦艦を無事に進水させるための会議で、一週間家に帰ってこなかったこともある。しかし、当時は宮田さんも武蔵の建造は全く知らなかった。工場には植物の棕櫚(しゅろ)で編んだ巨大な覆いがかけられ、銃剣を持った海軍の兵士に「見るな」と怒鳴られた。「父はお袋を前に、酒を一本、もう一本と飲んでいた。家族にも何も話せず、つらかったんでしょうね」

 宮田さんは41年、飽浦尋常小学校を卒業し、旧制県立長崎中に進学した。その年の12月、太平洋戦争が始まった。

 1、2年生の時は勉強漬けの毎日だった。授業のレベルも高く、2年の英語の授業では「ロビンソン・クルーソー」の原書を1年間かけて読破した。しかし、戦況は次第に悪化。3年生になると、田植えや土木作業の手伝いをする勤労奉仕が急速に増えていった。

 4年生の44年6月には、学徒動員で三菱重工業長崎造船所の幸町工場に配属された。船のエンジンのシャフトなどを削る大型機械を初めて目にし、仕事への興味がかき立てられた。担当は高速旋盤。色々な機械のピストンやねじを削り出して作った。

 髪の毛1本、100分の1ミリ単位の繊細な仕事に熱中した。支給された新しい作業服は、削った鉄粉と機械油がこびりついて真っ黒になった。仕事を休まず、旋盤の腕前も工場内で賞をもらうほど上達したため、社員から可愛がられた。

 宮田さんは45年3月、旧制長…

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