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木場田友次さん(1938年生まれ)

 長崎市上野町に2畳一間の小屋がある。被爆者の救護に尽力し、「長崎の鐘」などを書いた永井隆(ながいたかし)博士(1908~51)が病に伏せながら執筆を続けた如己(にょこ)堂だ。

 1949年秋ごろ、一人の少年が親戚に連れられて如己堂を訪れた。永井博士から結核の診察を受けた後、療養生活を続けていたが、「治ったようだ」と報告しに来たのだ。

 「先生、診て下さい」。少年は博士に言った。博士は起き上がることができず、少年に自分の上に四つんばいになっておなかを出すよう求めた。博士は寝たまま聴診器を当て「良い音だ、良い音だ」とうなずいた。

 少年は、長崎市神ノ島町の木場田友次(こばたともじ)さん(76)。原爆投下の直前に疎開し、自身は被爆を免れたが、家族が犠牲となった。現在、博士を顕彰する長崎如己の会理事。博士の植えた千本桜の2世の植樹などを続け、平和を願う博士の思いを受け継いでいる。

 「永井先生とは見えない糸でつながっているようだ」と振り返る。

 木場田さんは1938年、現在の五島市富江町で生まれた。2、3歳の頃から、長崎市の養父母の元で育てられた。

 自宅があったのは、長崎医科大(現長崎大医学部)のグラウンドそばの同市本尾町。一家は代々、キリスト教の信徒で、近くの浦上天主堂をしばしば訪れた。「天井が高くて、大きく感じた」

 国民学校入学前の冬、せきが続くようになり、長崎医科大付属病院を受診した。後に知ったことだが、この時、診察したのが永井博士だった。大きな体の永井博士を見て、木場田さんの第一印象は「怖い」だった。

 診断は、当時治らないと言われていた結核。木場田さんは「お利口にしていたら治るよ」とやさしく言われたことを記憶している。45年4月から国民学校に上がる予定だったが、療養のため通うことはできなかった。数年後に再会した際、永井博士は「『学校には行けない』と言ったら、泣かれて困ったんだよ」と教えてくれたという。

 45年8月1日、木場田さんの自宅にほど近い長崎医科大付属病院などが空襲の被害を受けた。結核の療養中だった木場田さんも自宅で「ドーン、ドーン」という大きな音を聞いた。「これ以上いると危ない」と、木場田さんは直後に五島に疎開することに。原爆投下の数日前のことだ。長崎市本尾町の自宅は爆心地の東約600メートル。「自宅にいたら100%死んでいただろう」

 8月9日の原爆投下後、大人が「長崎に新型爆弾が落ちたらしい」と話しているのを耳にした。8月下旬には、同病院に近い長崎市坂本町に住んでいた親戚がやってきた。「全滅で誰も生きていない」。養父母の死を知り、涙が出た。

 中学に入ってから、本尾町の自宅跡を訪ねた。「本当に何も残っていなかった」。養父母がどこで亡くなったかは不明で、骨を拾うこともできなかった。墓には自宅跡にあった石や瀬戸物のかけらが、遺骨の代わりに納められているという。

 木場田さんは46年1月、疎開先の五島から長崎市に戻った。市内の病院で療養生活を続けた後、親戚の清川武夫(きよかわたけお)神父が校長だった同市本河内の聖母の騎士小神学校(現・聖母の騎士高校)の寮で暮らした。

 49年ごろに永井博士の如己堂を初めて訪れた後も、木場田さんは如己堂に通った。永井博士は、聖母の騎士修道院を長崎に開いたポーランド出身のコルベ神父を診察し、戦後は、一時的に同校の生徒に授業をするなど同校との縁が深い。コルベ神父が創刊した冊子「聖母の騎士」に連載しており、木場田さんは「原稿を取りに行っていた」と語る。

 永井博士のために、インスタントコーヒーを持って行かされることもあった。「先生はものすごく喜んだ」。横になったまま、チューブで飲むこともあったという。

 木場田さんは、原爆孤児の救済に尽力した同修道院のゼノ・ゼブロフスキー修道士と会ったこともある。「(彼からもらった)星形の砂糖菓子がおいしかった」と懐かしむ。

 「あそこに桜を植えてもらったんだよ」。ある日、如己堂を訪れた木場田さんに、永井博士が寝たまま語りかけた。

 博士が見つめる先にあったのは…

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