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森健一さん(1928年生まれ)

 「あっ、B29の落下傘が……」。被爆の瞬間、自宅前にいた子どもたちが言いかけた言葉を、長崎市城山町の森健一(もりけんいち)さん(86)は今もはっきり覚えている。

 森さんは、職場の長崎駅から爆心地の西1・2キロ、城山町1丁目(現・青山町)の自宅に帰り着いたところだった。玄関に入っていた森さんは、全身に傷を負いながらも命は助かった。だが、外にいた子どもたちは犠牲になったようだ。

 2013年8月9日の原爆忌の日、私は初めて森さんと出会った。森さんはその日、長崎市立城山小であった平和祈念式に出席し、静かに涙を流していた。「あの当時のことを思い出せば、話すより先に涙が出てくる」

 森さんは同校の卒業生。13年に国の文化財となった被爆校舎は在学中に建てられたものだ。森さんは学校近くに住み、学校周辺の掃除などを通じて子どもたちを見守ってきた。子どもたちの笑顔がいつまでも続くことを願いながら。

 森さんは現在の新上五島町で生まれ、幼少期に城山町1丁目に移り住んだ。34年、城山尋常高等小学校(後の城山国民学校、現・市立城山小学校)に入学。在学中にできた校舎はコンクリート造りのモダンな建物で、「西日本一の校舎と言われていた」という。「あの時分は何もなかったが楽しかった」と振り返る。

 学校では、教育勅語を暗唱させられた。森さんが卒業した40年は神武天皇の即位から2600年の節目とされ、「紀元2600年」を祝う歌も歌わされたという。

 進学した淵高等小学校(後の淵(ふち)国民学校、現・市立淵中)では、満蒙開拓青少年義勇軍への参加を呼びかけられた。森さんも卒業後は満州に行くつもりで、ビルマ(現・ミャンマー)に出征していた兄に「満州に行くぞ」と書いた手紙を送った。だが、卒業前に肋膜炎(ろくまくえん)になり、断念した。「義勇軍に行った人はほとんど帰って来ていないですよ」。卒業後、鉄道省(旧国鉄)の長崎駅に就職した。

 45年8月9日は朝からいい天気だったことを森さんは覚えている。前日からの宿直勤務を終え、その日は非番だった。長崎駅の詰め所にいる時、空襲警報が鳴った。しかし、しばらくすると解除された。いつもは宿直明けでも、そのまま詰め所で過ごすことが多かったが、なぜかその日に限って、空襲警報が解けると、城山町1丁目の自宅に歩いて向かった。

 午前11時ごろ、汗だくで自宅にたどり着いた。「帰ってたから良かった。帰る途中だったら、(屋外で被爆して)こうやってお宅と話もできないですよ」

 玄関で上半身裸になり、一息ついた。外から子どもたちの声が聞こえてきたのはその時のことだ。「あっ、B29の落下傘が……」。最後まで聞こえるか聞こえないかのうちに、「どーん」という音とともに森さんは吹き飛ばされ、意識を失った。

 子どもたちがどうなったかは知らない。「生きているもんですか」と語る。

 吹き飛ばされて意識を失った森…

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