[PR]

宮崎トミホさん(1926年生まれ)

 2013年9月、長崎市の宮崎トミホさん(88)は長崎大医学部で開かれた日本放射線看護学会学術集会のプロローグで、多くの看護師や研究者を前に講演した。原爆投下時、長崎医科大付属医院(現・長崎大病院)の看護婦だった。勤務中に被爆しながらも、他の被爆者の救護に走り回った。原爆投下前に医薬品を疎開させていたことや、臨時の救護所で道具がなく、近所から大工用ののこぎりを借りて負傷者の足を切断したことなどを語った。

 学術集会の会長を務めた浦田秀子・長崎大大学院医歯薬学総合研究科教授は「看護の専門家としての話を聞いてほしかった」と話す。宮崎さんは30分の予定時間を10分ほど超過して話したが、「まだ話せていないことがある」と振り返る。

 結婚と出産、育児のために10年ほど仕事を休んだが、復職後、60歳まで婦長など責任ある仕事を担った。「この仕事が好きなの」という宮崎さんの原点は、戦争体験にあると思い、話を聞いた。

 宮崎さんは熊本県・天草の出身。長崎市の茂木港と結ぶ船が出る富岡の近くだ。尋常高等小学校の2年上に長崎医科大付属医院看護婦養成所に入った人がおり、宮崎さんも高等科2年を終えると、船で天草灘を渡り、養成所に入った。

 養成所は2年間で、卒業後は2年間、付属医院で働く義務があった。宮崎さんは1942年3月に養成所を卒業。2年の勤務の間に助産婦の資格も取り、44年3月に就職先を探すことになった。ちょうど深堀村(現・長崎市深堀町)にできた川南工業深堀造船所が病院を設立するころで、多くの同級生や先輩たちがそちらに移った。宮崎さんも川南に行くつもりだったが、婦長から引き留められ、父の薦めもあって、同級生6人と共に大学付属医院に残った。「私を引き留めた婦長が、川南に行ってしまったんですよ」と笑う。

 所属は調来助(しらべらいすけ)教授(1899~1989)が率いる第1外科。18歳で副主任看護婦となった。

 44年8月、長崎でも空襲が始まった。長崎原爆戦災誌によると、長崎市は原爆投下までに5回の空襲を受けている。米軍の爆撃機が焼夷(しょうい)弾を落とすため、45年3月にはその対策として、一般住宅の天井板外しが行われた。

 当時の長崎医大付属医院の病棟は鉄筋コンクリート2、3階建てが多かったが、建物をつなぐ廊下は木造だった。そのため、同じ頃に天井板を外す工事があった。

 調教授は、外した天井板で箱を作らせ、医療品を疎開させることにした。宮崎さんら看護婦は大量のガーゼなどを夜通し消毒し、手術道具と一緒に詰め込んだ。木箱は調教授の滑石の疎開先に送られた。

 「関東大震災の経験で思いつかれたのでは」と宮崎さんは考える。調教授は東京帝国大医学部出身。1923年の関東大震災に、神奈川・小田原で遭遇している。当時大学4年生。3日がかりで東京に歩いて戻り、救護活動に参加したと生前語っていた。

 45年4月26日の空襲では、交通の要所が狙われ、出島岸壁や大波止、長崎駅に爆弾が落とされた。長崎原爆戦災誌などによると、発車直前だった佐世保行きの列車の中で90人が亡くなるなど、死者129人、重軽傷者278人にのぼった。

 長崎医大付属医院にも次々とけが人が運び込まれた。第1外科所属の宮崎さんらも、不眠不休で看護にあたった。看護婦が疲れ切っていたため、患者を運んだ担架は血の付いたまま廊下の壁に立てかけ、1階の仮眠室で休ませていた。

 そこに物理的療法(レントゲン)科の永井隆(ながいたかし)助教授が通りかかり、「担架に血が付いたままじゃないか」と叱られた。軍医だった永井助教授は、非常に厳しかった。宮崎さんは思わず、「わかってます。でも人手がたりません。看護婦はずっと寝ていないので、1分でも休ませたいんです」と言い返した。永井助教授は何も言わずに立ち去ったという。宮崎さんは1人で担架の血を拭き続けた。

 45年夏には、毎日のように空襲警報が出るようになった。発令されると、防空壕(ごう)に避難することになっていたが、外科には自分で動けない入院患者がいる。宮崎さんたちは「避難するなら、自分の患者をおぶって行け」と言われ、病棟に残るしかなかった。やむをえず、ベッドを二つ並べて布団をかけ、その下に患者を入れることにした。

 8月1日の空襲では、長崎医大付属医院にも爆弾が落とされ、死者3人を出した。これをきっかけに、重症者以外は退院させることになった。宮崎さんは地下の倉庫を片付け、畳を敷き詰め、壁にはマットレスを立てかけて囲んだ。警報が発令されると、患者を担架で運んで避難させた。

 調教授は戦後、「我々は空襲警報が出ても退避することができず、全員院内に頑張って仕事に従事していた。看護婦諸君は大分不満のようであったが、このことがかえってよい結果をもたらしたようにも思われる」と書き記している。

 45年8月9日は朝から空襲警報が出されたため、患者を地下室に移していた。警報は解除になったが、地下室でそのまま包帯の付け替えなどをすることにした。

 午前11時ごろ、宮崎さんは1階の看護婦室で書類整理をしていた。廊下側の窓に面した机に向かっていると、爆撃機の爆音が聞こえた。「警報は解除されたのに変だな」と思った瞬間、「ドカーン」ときた。背中を何かで押されたような感じがした

 気がつくと周囲は真っ暗。てっきり爆弾の直撃にあったのだと思った。地下室が気になったが身動きがとれない。しばらくすると、夜が明けるように少しずつ明るくなった。廊下まで飛ばされていて、背後にあったガラス戸棚が倒れ、背中にガラスの破片が刺さっていた。

 「みんなは大丈夫だろうか」と…

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら