日本政府は元慰安婦に対する「謝罪」の意思を表す金銭的な支援を早い段階から検討していたが、具体的な制度設計に入ったのは1994年の村山政権になってからだ。同年10月、自民・社会・さきがけの与党3党が、戦後50年問題プロジェクトチームの「従軍慰安婦問題等小委員会」で議論を始めた。

 政府はもともと、65年の日韓請求権協定などで請求権に関する問題は解決済みとの立場で、法的責任は認めていない。日韓の市民団体は「国家賠償」を要求し、首相を出していた社会党も国家賠償を主張したが「少しでも戦後責任を前進させるべきだ」と妥協。民間による寄付金を集めることにした。

 95年6月、五十嵐広三官房長官は「女性のためのアジア平和友好基金」(仮称)の設置を発表した。基金の原資は募金で集め、政府も医療福祉事業費に資金を出す仕組みだ。韓国は医療福祉事業を念頭に「一部事業に対する政府予算の支援という公的性格は加味されている。誠意ある措置だ」との論評を発表。韓国の元駐日大使は「社会党が参加する政権だからこそできた動き」と語り、韓国政府も当初は、基金を評価した。

「国家賠償を」

 同年7月、「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」として発足したが、基金の実施を転機に日韓のすれ違いが大きくなる。

 構想段階から、日韓の支援組織などが「基金は国家賠償ではなく、日本政府の責任をあいまいにしている」と批判しており、中心となった韓国の市民団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」は責任者の処罰も求め、最後まで溝は埋まらなかった。

 法的責任を認めていない日本政府が「アジア女性基金は民間の事業」と説明し続けたことも、支援組織には責任回避に映った。韓国メディアが基金から支払う「償い金」を「慰労金」と訳したことも韓国世論がアジア女性基金の趣旨を理解することを妨げた。

 元慰安婦全員が挺対協と同じ意見だったわけではない。

 97年1月、基金の受け取りを希望した元慰安婦に初めて償い金と医療福祉事業費を支給した「伝達式」は、ソウル市内で非公開で進められた。関係者によると、橋本龍太郎首相名のおわびの手紙が韓国語で代読され、チマ・チョゴリの正装で出席した元慰安婦は泣き崩れたり、喜びの言葉を口にしたりした。

 だが、終了後に公表すると韓国社会で強烈な反発が出た。受け取った7人の氏名が公表され、「カネに目がくらんで心を売った」「罪を認めない同情金を受け取れば、被害者は公娼(こうしょう)になる」との強い非難が元慰安婦に寄せられた。韓国外務省も「我が政府と大部分の被害者の要求を無視して支給を強行したことは遺憾だ」とのコメントを発表。直後の日韓外相会談では柳宗夏(ユジョンハ)外相が支給手続きの中断を求めた。

独自に募金

 韓国政府が態度を変えたのは、別の案件で日韓関係が急速に悪化した事情もあった。

 96年初めに日本が排他的経済水域(EEZ)を設定する方針を決めると、日韓間で竹島領有権問題が再燃。反日運動が盛り上がるなか、韓国政府は市民団体の声に配慮せざるを得なくなった。当時の対日担当者は「金泳三大統領は真相究明を強調するばかりで、償い金の受け取りを認めなくなった」と証言する。

 挺対協など支援団体は、アジア女性基金に対抗して独自の募金活動を開始。韓国政府は98年5月、元慰安婦に政府支援金3150万ウォン(約312万円)と民間募金418万ウォン(約41万円)の支払いを始めた。基金を受け取る意思のない人だけが対象で、基金の活動は一層難しくなった。

 基金は2002年5月、韓国での事業を終了。村山富市理事長は記者会見で「種々の困難に直面したが、受け取りを希望した元慰安婦への償い事業を実施することができた」と総括した。

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 〈アジア女性基金〉 河野談話を受けて1995年7月に発足。首相によるおわびの手紙と国民の寄付から償い金200万円、国費から医療福祉支援事業として120万~300万円を元慰安婦に支給した。韓国では韓国政府認定の元慰安婦207人中(2002年時点)、61人を対象に実施。基金受け取りを公表すると韓国社会からバッシングを受けたり、韓国政府からの支給金を受け取れなかったりしたため、水面下で事業を進めた。台湾では13人、フィリピンは211人が対象。オランダでは79人が医療福祉事業費のみ受け取った。インドネシアは元慰安婦の認定が困難だとして、高齢者施設を整備した。