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三田村静子さん(1941年生まれ)

 3歳の時に爆心地から約5キロの場所で被爆した三田村静子(みたむらしずこ)さん(72)は4月、被爆体験の語り部になるため、長崎平和推進協会継承部会に入った。「今こそ語らないと。娘のために」。それが使命と感じている。

 「この時が最後の別れだったんです」。三田村さんが1枚の写真を見せてくれた。コスモス畑の中の長女、美和(みわ)さん。楽しそうにほほえむ姿に引き込まれた。この翌年の2010年6月、39歳でこの世を去った。

 三田村さん自身、がんと闘い、今も再発の不安を抱える。目では見えない、においもしない放射線への不安を感じてきた。被爆2世への影響は分からないというが、娘にも放射線が影響していたんじゃないか――。それが語ろうと思ったきっかけだ。11年3月の東京電力福島第一原発の事故を受け、語る必要性をさらに感じた。

 「黒こげの状態は体験していないので語れないが、放射線の不安の中で生きていることは伝えられる」

 三田村さんは太平洋戦争が始まった1941年12月に生まれた。被爆当時は爆心地の南西約5キロ、稲佐山を越えた先の福田村(現・長崎市福田本町)の自宅にいた。当時は3歳だったが、わずかに覚えている情景がある。

 三田村さんは縁側で、姉2人と兄の4人で食事をしていた。「当日は米だったんです。うれしくて、ものすごく楽しいひとときだった」と三田村さん。普段は食糧難でイモが多かった頃だけに、鮮明に覚えていた。

 白色の光がパーッとあたりを包んだ。夢中で食べている三田村さんのご飯の上に白い灰かごみのようなものが落ちてきたが、そのまま食べ続けたという。「何ぐずぐずしとっとね」。姉が三田村さんをおぶって、逃げた。そこまでははっきり覚えている。

 姉たちは、髪の毛が逆立っている状態で稲佐山から下りてくる人たちを見たらしい。大人になってから、「地獄図のような光景だった」と聞いた。

 三田村さんは39歳の時に大腸がんがわかった。当時は「がん=(イコール)死」とされていた。手術前に一時帰宅した際は「これが最後かな」と思ったが、手術で九死に一生を得た。

 その頃、母は初めて三田村さんに原爆のことを語った。三田村さんが被爆者健康手帳を取ったのもその時だ。母は娘への差別や偏見を恐れてか、それまでは語ることはなかったという。59歳の時には、子宮体がんとなり、子宮を摘出した。

 三田村さんだけではなく、周囲にも病魔は次々と襲った。三田村さんの2番目の姉も2度大腸がんになった。3番目の姉は39歳の時に直腸がんで亡くなった。その2人の娘も、それぞれ、がんや脳腫瘍(しゅよう)で30~40代でこの世を去った。みな、被爆当時、三田村さんと一緒に自宅にいた人とその娘だ。

 三田村さんは2010年には、長女の美和さんをもがんで失うことになる。「やっぱり放射能が影響しているのではなかろうか」と三田村さんは語る。

 母が自身に原爆のことをあまり話さなかったように、三田村さんも、長女の美和さんに被爆のことを話すことはあまりなかった。ただ、「白い灰のようなものが降ってきたご飯を食べた」とは話していた。

 夫と愛知県に住んでいた美和さんは2010年1月ごろ、体調が悪くなって病院にかかった。三田村さんが電話で体を気遣うと、いつも「大丈夫、大丈夫」と返してきた。「心配をかけたくなかったのでしょう」。まさか死に至るとは思っていなかった。

 その年の3月末ごろ、美和さんが倒れた。三田村さんが駆けつけた時には、もう話すことはできなかった。抗がん剤の影響で髪の毛は抜け落ち、変わり果てた姿だった。3カ月後、息を引き取った。「何でもっと早く会いに行かなかったのだろう」と悔やんだ。

 葬儀の後、美和さんの親友が、…

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