夏目漱石「三四郎」(第十回)二の二

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 あくる日は平生(へいぜい)よりも暑い日であった。休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君はおるまいと思ったが、母が宿所を知らせて来ないから、聞き合せかたがた行って見ようという気になって、午後四時頃、高等学校の横を通って弥生(やよい)町(ちょう)の門から這入(はい)った。往来は埃(ほこり)が二寸(すん)も積っていて、その上に下駄の歯や、靴の底や、草鞋(わらじ)の裏が奇麗に出来上ってる。車の輪と自転車の痕(あと)は幾筋(いくすじ)だか分らない。むっとするほど堪(たま)らない路(みち)だったが、構内へ這入るとさすがに樹の多いだけに気分が晴々(せいせい)した。取付(とっつき)の戸をあたって見たら錠が下(お)りている。裏へ廻(まわ)っても駄目であった。しまいに横へ出た。念のためと思って推(おし)て見たら、旨(うま)い具合に開(あ)いた。廊下の四つ角に小使(こづかい)が一人居眠りをしていた。来意を通じると、しばらくの間は、正気を回復するために、上野の森を眺めていたが、突然「御出(おいで)かも知れません」といって奥へ這入って行った。頗(すこぶ)る閑静である。やがてまた出て来た。

 「御出(おいで)でやす。御這入んなさい」と友達見たようにいう。小使に食っ付いて行くと四つ角を曲って和土(たたき)の廊下を下へ降りた。世界が急に暗くなる。炎天で眼(め)が眩(くら)んだ時のようであったが少時(しばらく)すると瞳が漸(ようや)く落付いて、四辺(あたり)が見えるようになった。穴倉だから比較的涼しい。左の方に戸があって、その戸が明け放してある。其処(そこ)から顔が出た。額(ひたい)の広い眼の大きな仏教に縁のある相である。縮(ちぢみ)の襯衣(シャツ)の上へ脊広(せびろ)を着ているが、脊広は所々に染(しみ)がある。脊(せい)は頗る高い。瘠(や)せている所が暑さに釣り合っている。頭と脊中を一直線に前の方へ延ばして御辞儀をした。

 「こっちへ」といったまま…

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