夏目漱石「三四郎」(第十五回)三の一
学年は九月十一日に始まった。三四郎は正直に午前十時半頃(ごろ)学校へ行って見たが、玄関前の掲示場(けいじば)に講義の時間割があるばかりで学生は一人もいない。自分の聴くべき分だけを手帳に書き留めて、それから事務室へ寄ったら、さすがに事務員だけは出ていた。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まるといっている。澄ましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がないようですがと尋ねると、それは先生がいないからだと答(こたえ)た。三四郎はなるほどと思って事務室を出た。裏へ廻(まわ)って、大きな欅(けやき)の下から高い空を覗(のぞ)いたら、普通の空よりも明かに見えた。熊笹(くまざさ)の中を水際(みずぎわ)へ下りて、例の椎(しい)の木の所まで来て、またしゃがんだ。あの女がもう一遍通ればいい位に考えて、度々(たびたび)岡の上を眺めたが、岡の上には人影もしなかった。三四郎はそれが当然だと考えた。けれどもやはりしゃがんでいた。すると午砲(どん)が鳴ったんで驚いて下宿へ帰った。
翌日は正(しょう)八時に学校へ行った。正門を這入(はい)ると、取突(とっつき)の大通りの左右に植えてある銀杏(いちょう)の並木が眼に付いた。銀杏が向うの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門の際(きわ)に立った三四郎から見ると、坂の向うにある理科大学は二階の一部しか出ていない。その屋根の後ろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。日は正面にある。三四郎はこの奥行のある景色を愉快に感じた。
銀杏の並木がこちら側で尽き…