夏目漱石「三四郎」(第二十回)三の六
その日は葡萄酒の景気と、一種の精神作用とで、例になく面白い勉強が出来たので、三四郎は大いに嬉(うれ)しく思った。二時間ほど読書三昧(ざんまい)に入(い)った後(のち)、漸く気が付いて、そろそろ帰る支度(したく)をしながら、一所に借りた書物のうち、まだ開けて見なかった、最後の一冊を何気なく引っぺがして見ると、本の見返しの空いた所に、乱暴にも、鉛筆で一杯何か書いてある。
「ヘーゲルの伯林(ベルリン)大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫(ごう)も哲学を売るの意なし。彼の講義は真(しん)を説くの講義にあらず、真を体(たい)せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合(がっ)して醇化(じゅんか)一致せる時、その説く所、いう所は、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学の講義は茲(ここ)に至って始めて聞くべし。徒(いたずら)に真を舌頭(ぜっとう)に転ずるものは、死したる墨を以て、死したる紙の上に、空(むな)しき筆記を残すに過ぎず。何の意義かこれあらん。……余今(いま)試験のため、即ち麵麭(パン)のために、恨(うらみ)を呑み涙を呑んでこの書を読む。岑々(しんしん)たる頭(かしら)を抑(おさ)えて未来永劫に試験制度を呪詛(じゅそ)する事を記憶せよ」
とある。署名は無論ない。三四…