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柳川雅子さん(1931年生まれ)

 長崎に原爆が落とされて間もない1945年10月、14歳の少女が病床で被爆体験をつづり始めた。体験記は「雅子斃(たお)れず」と題した一冊になり、連合国軍総司令部(GHQ)の検閲に遭いながらも、世に出ることになる。

 その少女は当時、県立長崎高等女学校の3年生だった柳川雅子(やながわまさこ、旧姓石田)さん(83)だ。柳川さんが体験を書いたのは、東京にいた兄、穣一(じょういち)さん(86)が作っていた「石田新聞」に載せるためだ。穣一さんは、疎開などで散り散りになった親戚の近況を手作りの新聞にまとめており、柳川さんを心配する親戚のために、妹に体験を記してもらおうと考えた。乗り気ではなかった柳川さんだが、4回に分けて原稿を送った。

 柳川さんは振り返る。「書き切れていないことがたくさんあるんです。書く腕も痛かったし、思い出したくもなかったから、飛ばし飛ばし要点だけ書きました。もっと克明に見たんです」。本には記していない、ずっと抱えてきた自責の念もあった。

 柳川さんは東京出身で、45年4月に長崎に引っ越した。裁判官だった父、寿(ひさし)さん(1895~1962)が長崎地裁所長になったためだ。

 45年8月当時は、学徒動員で三菱兵器大橋工場(現在の長崎大の場所)で働いていた。魚雷に水漏れがないようハンマーで鋲(びょう)を打つ仕事をしていた。

 同月9日、午前に空襲警報が出て、同級生らと山側の防空壕(ごう)に避難した。3日前に広島に落ちた「新型爆弾」のことが話題になった。前年、寿さんは広島への転勤の話もあったため、同級生とは「広島に行かなくて良かったね」と話していた。

 午前11時2分。工場内に戻り、机にもたれ、少し休んでいる時だった。突然、背中側から熱を帯びた強烈な閃光(せんこう)が走った。ピンク色の光であたりは染まった。東京で幾度も空襲を経験した柳川さんは「空襲とは違う。魚雷が破裂したのかな」と思った。2秒ほど後、一気に吹き飛ばされた。

 爆風で地面にたたきつけられた。10メートルほど飛ばされたように感じた。物が落ちてきて下敷きになったが、何とかはい出した。ガラスや色々な破片が散らばっていた。首のあたりから大量に血が流れ、首筋をけがしたのだと思った。

 工場はすぐに火の海と化した。柳川さんの脳裏には今も、そこから逃げた時の光景がこびりついている。

 数人が崩れた建物の下敷きになっていた。「助けて」「助けて」。救いを求める手が伸びてきた。だが、助けることはできなかった。「自分が逃げることで必死だった」

 その人たちは炎にまかれ、亡くなっただろうと思っている。「見捨ててしまった」。罪悪感に今もさいなまれている。

 その光景は、著書「雅子斃(たお)れず」には書ききれなかった。数年前、一つの短歌をしたためた。

 「助けてぇ―」 炎の中の そちこちに あがるを聞き捨て 逃げしをゆるせ

 柳川さんは三菱兵器大橋工場を出た。門の所では、つながれた馬が暴れていた。畑に薄暗い煙がたちこめ、見渡す限り人が倒れていた。そこで見た光景について、柳川さんはこう語る。

 「誰も信じてくれないと思いますが、頭の後ろ半分がえぐれて真っ黒になった人が、立って生のなすをかじっていたんです。そんなこと、あり得ないと思うが、爆撃の直後だから、神経が通じていて、水気がほしくて生のなすをかじっていたのかもしれない」

 逃げる途中で川に落ち、履いていたげたも流されたようだ。川岸から誰かが手をさしのべて、引き揚げてくれたらしい。後年、それが同級生の女性だったことを知った。

 柳川さんは線路に出て、道ノ尾駅に向かって、夢中で逃げた。同じような人が幾人もおり、「マラソンのスタートのようだった」という。時折、米軍機が上空を飛んだ。「怖くてたまらなかった」。くぼみを見つけては、飛び込んで身を隠し、震えた。

 柳川さんは夢中で駆け、道ノ尾にたどり着いた。いつの間にかげたが脱げ、裸足になっていた。防空壕(ごう)で、仮設の診療所に行くよう勧められ、診療所では、赤チンとオキシドールで傷口を消毒してもらった。その時初めて、けがをしたのは後頭部だと知った。

 「寝ていなさい」と言われて、…

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