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正林克記さん(1939年生まれ)

 2007年8月9日の平和祈念式典。正林克記(まさばやしかつき)さん(75)は被爆者を代表して「平和への誓い」を読み上げた。6歳で被爆し、腹に竹が刺さったまま妹を背負って立ち尽くした経験、今も放射能の影響に苦しむ被爆者の現状を訴えた。そして、「世界の恒久平和を願って、足元から微力を尽くす」と誓った。

 目の前には第一次政権を担っていた安倍晋三(あべしんぞう)首相がいた。政権に復帰した安倍首相が進める解釈改憲による集団的自衛権の行使容認などを見ていると、「平和への願いが通じていなかったのかと、むなしくなる」。行使容認で他国に武力行使をすれば復讐(ふくしゅう)心が起こり、再び原爆が使われかねないと心配する。

 その安倍首相と今年8月9日、長崎原爆遺族会長として面会した。解釈改憲に反対し、平和憲法にのっとり近隣諸国との緊張を解くことに力を注ぐべきだと訴えた。「被爆者として、残り少ない時間を使いたい」との思いから、被爆者援護や平和活動に取り組んできた。

 正林さんは大阪市の裕福な家庭の長男として生まれた。おもちゃも買い与えられ、不自由をした記憶はない。だが、大阪は空襲が激しく、防空壕(ごう)に避難を繰り返す毎日だったことに家族は疲れ切っていた。

 「長崎は空襲も少なく、安全だから」。長崎に住んでいた叔父に言われ、1945年4月ごろ、家族4人で長崎へ引っ越した。一家は長崎市家野町で暮らし、正林さんは幼稚園に通い始めた。園児ながら、木で作った鉄砲の模型を持って、敵を撃つ練習をさせられたことを覚えている。

 引っ越してから間もなく、掛け軸作りや室内装飾を仕事にしていた父の正夫(まさお)さんに赤紙が届き、海軍に召集された。しかし、5月ごろに、けがをして神戸の海軍病院に入院。見舞いに行ったが1週間もせずに亡くなった。何が原因だったのか、今でも分からない。30歳を過ぎたばかりの若さだった。その後間もなく、追い打ちをかけるように一家を原爆が襲った。

 8月9日は朝から空襲警報が鳴り、当時6歳だった正林さんは母安枝(やすえ)さんと3歳の妹邦子(くにこ)さんの3人で、家の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。警報が解除されて間もなく、近所の友達にセミ捕りに誘われた。安枝さんに伝えると、「空襲がいつあるか分からない。危ないから駄目」と言われたが、頼み込んだ。

 邦子さんを連れて自宅から約200メートル離れた雑木林がある丘に向かった。うだるような暑さとセミの大合唱。ちょうど腕を回せるほどの太さの木にセミを見つけた。虫かごを邦子さんに手渡し、虫捕り網をのばし始めた瞬間、飛行機の爆音が響いた。空襲だと思い、正林さんは邦子さんを連れ、近くの炭焼き小屋に入った。一緒にいた友達の一人は自宅の方向に走り、もう一人はその後を追った。後に2人とも原爆で亡くなったと知った。

 ほぼ同時に光と爆音が襲った。爆心地から1・5キロ。小屋は爆風で破壊された。見回すと、邦子さんが、がれきに埋まって気絶していた。

 正林さんは、がれきの下から急いで妹の邦子さんを引っ張り出した。邦子さんの白いシャツを触ると、ボロッと灰のように崩れた。皮膚も血だらけ。気づくと正林さんの左下腹部には竹の棒が突き刺さっていた。白い半袖シャツが真っ赤に血で染まっていった。

 邦子さんを背負い、周りを見渡し、立ちすくんだ。丘の上から自宅の方向を見ると、一面が真っ赤に燃え上がっている。正林さんの周囲にあった雑木林は、何者かに踏み潰されたようだった。緑に包まれていた世界は、焦げて茶色だった。臭いも何も感じなかった。

 しばらくして丘の下からケガをした人たちが逃げるようにはいあがってきた。髪が燃え、服が燃えたままの人、やけどをした人、その場で倒れた人もいた。男女の区別もつかない人もいた。背中の邦子さんは、か細い声で「お母さん」と呼ぶ。母親を捜そうとした。だが、怖くてけが人の顔を見ることができない。意識も遠のいた。そんな時、一人の男性が助けに来た。

 一人の男性が助けに来てくれた。助かった、と思った。だが、腹に竹が刺さった正林さんを見て、「駄目ばい、死ぬばい」。見捨てられた。背中におぶった妹邦子さんの「お母さん」と泣き呼ぶ声が、次第に小さくなる。空を見上げた。死んだ父を思い、「お父さん、助けてよ!」と叫んだ。そのまま、意識を失った。

 「かっちゃん かっちゃん」。母安枝さんの叫び声がかすかに聞こえる。意識が戻ると、「生きていてくれたとね!」。安枝さんも血だらけで、顔をすり寄せてきた。母親のにおいをかぎ、初めて安心することができた。「何とも幸せなにおいで今も覚えている。母の必死の呼びかけが私を連れ戻してくれた」と当時を振り返る。

 気がついたのは、住吉町にあった防空壕(ごう)だった。正林さんは、次々と戸板に載せられて運ばれてくる死体と一緒に並べられていた。邦子さんも無事で、ほっとした。家族は住吉町の叔父の家に身を寄せることになった。

 正林さん一家が身を寄せることになった叔父の家は、原爆で半壊していた。家は近所の人たちと協力して修理し、いとこや祖母ら8人での生活が始まった。

 正林さんは腹部のけががひどく、寝込む日々。看病は祖母が熱心にしてくれた。けがに効くということで、コイの生き血を飲まされ、薬草を傷口に貼ってもらった。薬草は傷口にしみた。

 うだるような暑さが続いた。1週間ほどして傷口を見ると、うじ虫がわいていた。驚く正林さんに、祖母は「この虫ちゃんが、悪いものを食べてくれるから」。安心させようとしてくれていることが分かった。

 食事は、ひえとあわのおかゆばかり。母の安枝さんがたまに手に入れてきたゆで卵は、けがをしていることを理由に正林さんに与えられた。まわりから、うらやましそうに見られていたことを覚えている。

 正林さんが動けるようになったのは、被爆から1カ月が過ぎてからだった。

 正林さんの腹部の傷は治ったが、傷痕は体にも心にも残った。1946年に西浦上国民学校(現・西浦上小)に入学後数年は、傷口を見ることが癖になった。腹痛になると母の安枝さんに「傷のせいだ」と訴えた。

 原爆の放射線による後遺症について理解をし始めたのは中学生になってから。原爆症について耳に入り始め、自分もいつ病気になるのか不安になった。

 中学生の頃、ブラジルに永住するという友達がいた。先生は「正林くんは英語ができるし、行ってみたら」。冗談半分だったのかもしれないが、県外や海外に住むなど考えられないと思った。「長崎を離れたら原爆のことを分かる医者もいないし、死んでしまうかもしれない。怖かった」と振り返る。

 正林さんが高校時代にあこがれていた女子生徒は、東京で働きたがった。正林さんは一緒に行こうと東京の大学を受験し、合格。「愛情はトラウマを越えた」。しかし、女子生徒は両親の反対で結局、長崎に残った。

 中央大学法学部に入学した正林…

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