[PR]

相川英子さん(1935年生まれ)

 長崎市上小島1丁目の相川英子(あいかわえいこ)さん(79)は、戦後10年ほど、飛行機の音を聞くのが怖かった。それは1945年8月9日の記憶からだ。

 あの日、相川さんは爆心地の北東3・2キロ、長崎市川平郷(現・同市川平町)の自宅にいた。飛行機の爆音を聞き、2階の窓から外をのぞいたときだった。浦上方向の空、小さな山の上に、機首を左にして爆撃機が飛んでいるのがはっきり見えた。

 すぐピカーッと強い光が襲った。続いて来た爆風に吹き飛ばされ、相川さんは自宅そばの河原に落ちた。幸い、草の上だったが、近くには大きな岩があった。「岩に落ちたら、今はこうしてしゃべっていない」と思う。

 あの日は青空だった、と多くの被爆者がいう。相川さんにはっきりした記憶はない。だが、「あの機影は忘れない。大きかった」。原爆を落とした直後のB29ボックス・カーの姿だったと思っている。

 相川さんが被爆したのは、長崎市川平郷の筒水(とっぽみず)というわき水の出る地だ。浦上川の上流の川沿いに相川さん一家の自宅はあった。今はそばに、長崎バイパスの川平料金所がある。

 被爆当時は西浦上国民学校(現・市立西浦上小学校)の4年生だった。長女で、下に計5人の弟、妹がいた。遊んだ思い出よりも、子守をしていた記憶の方が多い。

 被爆当時も一番下の1歳にならない妹の子守をしていた。帰宅した母に妹を渡した後、爆音を聞き、B29らしき機影を目撃し、被爆した。自宅は爆心地方面の街とは離れ、山に入った所だ。その地に立つと、ここまで閃光(せんこう)や爆風が届いたことに、驚きを感じる。

 爆風で吹き飛ばされた相川さんは河原からはい上がり、そばにいた弟を連れて、竹が生い茂る山の中にあった防空壕(ごう)に避難した。すでに爆心地方向から逃げてきた人たちがいた。「多くの人が筒水で水を飲んでいました」と語る。

 相川さんの入った防空壕(ごう)に、しばらくして知り合いの14歳ぐらいの少年がやってきた。被爆の瞬間、より爆心地に近い大井手川で遊んでいたという。全身真っ黒焦げだった。母を前に少年はうめき声を上げた。「お母さん」。そして「目が見えなくなってきた」。壕に来て10分ほどで、息絶えた。

 顔にやけどを負って逃げてきた…

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら