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山口シマ子さん(1920年生まれ)

 近くの高架を走る電車の音と振動が、数分おきに響く。兵庫県明石市にあるマンションのベッドの上で、山口(やまぐち)シマ子さん(94)は一日の大半を過ごす。

 「若い時は健康そのものだった。長崎で被爆してから次から次へずっと病気。生きている限り、この苦しみから逃れられない」

 心臓肥大と貧血は20代から、40歳で甲状腺の腫瘍(しゅよう)を切除した。60代で悪性の乳がん。70歳を過ぎての膀胱(ぼうこう)がんでは、さじを投げた医師もいた。子宮も、卵巣も、がんで摘出した。被爆者健康手帳の更新のたび、書き込む病は増えていく。通院をやめようと医師に相談したことがあったが、「薬をやめたら、あんたは死ぬんだから」と叱られた。

 被爆について家族以外に伝えるのは初めて、という。「話すと胸がつまるから。でも、考え直しました。人を地獄に落とす原爆のこと、体験した者が口つぐんだら、誰が話すんかって」。ベッドに横たわり、痛苦に満ちた戦後を語り始めた。

 「亡くなるような病状ではないのだが……」。被爆時、長崎市の家に山口さんと一緒にいた育ての母が、1954年に亡くなった。体いっぱいに小豆のような斑点が出た。医師は病気の原因が分からず、冷たくなった手を取り、首をひねった。山口さんも被爆後の体調不良は続き、57年に関西に移り住んでからも肝炎などで入退院をくり返した。

 62年、神戸医科大(現・神戸大医学部)の医師に「あなたの病気は被爆の影響の可能性がある」と初めて指摘された。「原爆は健康まで奪うのか」。山口さんは怒りに震えた。

 結婚して授かった一人娘は健康だったが、その長男は16歳のとき、心臓発作で亡くなった。「(原爆の影響が)娘にいかず、孫にいったんやろうか」と涙にくれた。20年ほど前に短歌を始め、こんな歌をつくった。

 《原爆の 死の灰浴びて 病との 闘い続く 生ある限り》

 だが、原爆のもたらす苦しみは「病との闘い」だけではなかった。

 「役立たずの死に損ない」。山口さんが60代の頃、近くに住む女性と口論になって罵声を浴びせられた。それまでも「病気がうつるからそばに寄るな」と近所で陰口を言われているのは耳に入っていたが、面と向かっての悪口はこたえた。

 70代になって、ある公立病院でも屈辱的な体験をした。受付で被爆者健康手帳を出すと、二十歳前後の女性職員が「なんや、マルゲンか」とつぶやいた。同じ病院の外科医に「マルゲンは後でまとめて診よか」と言われたこともある。負けん気の強い山口さんだが、「マルゲン」という言葉の差別的な響きに、ショックで二の句が継げなかった。「好んで被爆者になったわけじゃない。苦労をあざわらうような言い方をされたくない」

 知人の女性被爆者もその病院で同じ目にあい、「マルゲンて何じゃー」と怒鳴り上げたと後で聞いた。かかりつけの内科医は「医者でもバカがおるんや。かっかすると体にさわるからほっとけ」と慰めてくれた。

 山口さんは長年、罪の意識にもさいなまれてきた。被爆時は25歳で、長崎市竹ノ久保町にある育ての母の家に身を寄せていた。爆心地から約1キロ。家にいた2人は、倒れて燃え出した家屋からはい出し、逃げた。

 近くの川は「黒焦げや半焦げの人」でいっぱいだった。橋を渡ろうとすると、黒くすすけた腕が伸びてきて、右脚をつかまれた。人が折り重なって倒れていて、どの人の腕か分からない。「助けてー、水くれー」と聞こえるのは、この腕の人の声だろうか。

 どうすることもできず、しばらくして「ごめんね」と言いながら手を外そうとしたが、離してくれない。山口さんが力を入れると、皮がずるっとむけた。ひるんだが、自分も逃げるのに必死で「堪忍して」と走り去った。

 「右を向いても左を向いても死骸、燃えさかる炎、灰になった建物。あの時の光景は今でも目をつむると全部出てきます」。被爆から20年ほどたって、山口さんは悪夢にうなされるようになった。

 逃げても逃げても、顔のない黒…

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