[PR]

松尾幸子さん(1934年生まれ)

 11歳の時、爆心地の北西約1・3キロの岩屋山中腹で被爆した松尾幸子(まつおさちこ)さん(80)=長崎市本原町=の胸には、一粒の真珠がついた指輪をチェーンに通したネックレスが光る。

 数年前まで一緒に被爆体験の語り部をしていた女性の形見。同じ山里国民学校(現・山里小)の出身で、「幸子姉さん」と呼んで、人なつっこい笑顔で慕ってくれた。

 女性は2001年、放射線の影響とみられる肺がんと診断された。病院へお見舞いに行くと、体調の悪さをみせず、同室の他の患者にお茶を配るなど、優しくて面倒見のいい人だった。「語りたい」という思いが強く、入退院を繰り返しながらも語り部を続けたが、05年に亡くなった。のちに遺族が「生前は大変お世話になりました」と、真珠を形見として分けてくれたという。

 松尾さんは語り部をする時、必ずこの真珠のネックレスを身につける。そして時折、そっと触れて思う。「もっと語りたかった彼女の分まで伝えないと」

 1934年、松尾さんは長崎市大橋町で馬車を使って運送業を営む両親のもと、姉2人、兄5人、弟3人、妹1人の12人兄弟の8番目として生まれた。自宅は山里国民学校から約100メートル。爆心地の北約700メートルのところにあった。

 戦争が長引くと、服や履物は配給制になって不便だったが、食べ物には困らなかった。父の吉次郎さんは家族が食べる分の米を育てる田んぼや、サツマイモを作る畑を岩屋山などに持っていたからだ。白いご飯は貴重だったが、畑でとれた野菜などをおなかいっぱい食べることができた。「恵まれていたほうです」と松尾さんはいう。

 被爆当時、山里国民学校の5年生。学校では空襲に備え、目と耳を押さえて机の下にもぐる練習ばかりさせられていた。それでも、学校に通うことができたのは45年6月までだった。戦況が一層、悪化した7月ごろからは学校に行くことさえできなくなっていた。

 45年8月6日、広島に新型爆弾が落とされたと聞いたころ、松尾さんの父・吉次郎さんは米軍が空からまいた「8月8日、長崎は灰の町」と書かれたビラを見たという。内容を信じた吉次郎さんはその日のうちに岩屋山に畳2枚とトタン、材木を持って行き、サツマイモ畑の横に小さな小屋を作った。松尾さん一家は7日、8日の日中、その小屋に避難したが、結局何も起きなかった。

 9日朝、仕事に出かけようとする吉次郎さんに母たちが言った。「もう今日は9日。ビラはうそだったんだろうから、山へは行かない」。だが、吉次郎さんは「アメリカは1日遅れだから、今日が8月8日になる。今日までは絶対山へ行っておくように」と怒った。普段は優しい吉次郎さんが、その時だけは語気を強めた。松尾さんは祖母や母、弟たちと一緒に10人で山へ向かった。一番上の姉と叔母は留守番のため家に残った。

 この吉次郎さんの助言が松尾さんの命を助けることになった。

 8月9日。暑い日だった。吉次…

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら