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中村キクヨさん(1924年生まれ)

 中村(なかむら)キクヨさん(90)=長崎市小瀬戸町=は、記者が取材に訪れた日の晩も、いつものように仏壇の前に座り、手を合わせた。仏壇には水の入ったコップ。目の前で水を求めながら亡くなった被爆者を思い、朝晩の祈りを欠かさない。近所の浜辺に残されていた遺体は、近くの島に埋められた。詳しい場所は分からず、今となっては身元も分からない。

 2003年からは、若くして白血病で亡くなった次男のことも、仏壇で祈るようになった。自分の被爆が病気の原因だったのではないか、との思いは今もぬぐえない。

 「ずっと解決できないことを、戦争は残した。原爆による影響はまだ続いているし、これからも続く」。そんな思いで、被爆者の援護施策拡充に長年取り組んできた。90歳となった今も、県内の被爆者団体「県被爆者手帳友の会」で副会長を務めている。

 「まだまだ、戦争は終わっていない」。そう言って、記者に語り始めた。

 福岡県に生まれた中村さんは、5歳の時に父・菊太郎(きくたろう)さんの仕事の都合で長崎県に引っ越してきた。小学5年生から、現在も住む小瀬戸町で生活を始めた。家の前には砂浜が広がり、桟橋からは船の出入りもあった。市中心部に行くために船を使う生活だった。

 1940年に鶴鳴高等女学校(現・長崎女子高校)を卒業。着物を着て仕事をすることに憧れ、卒業後は川南工業の香焼島造船所で働くことに。任された仕事は事務で、資料整理や帳簿の確認などが主だった。

 41年に東条英機内閣が発足した頃から、造船所の雰囲気が変わってきたと感じた。事務の仕事だけでなく、工場での作業もやらされるようになった。化粧は禁止され、着物はモンペに変わった。その後、捕虜となって働かされている外国人の姿も目にした。

 それでも、「お国のために」と日の丸の鉢巻きを締めて働いた。1年ほどした頃、菊太郎さんに「そんな大変なことしなくていい。早く結婚をしろ」と言われ、仕事を辞めた。

 「見合いだ」。菊太郎さんに言われるまま、小倉市(現・北九州市)に住む満(みつる)さんと見合いをしたのは1943年。満さんは兵隊として内地と戦地を行き来していた。「よそに行ったら次はいつ戻るか分からん」と菊太郎さんにせかされ、2回ほど会って結婚した。中村さんは19歳、満さんは28歳。「正直、互い何にも分からない状態だった」

 長崎に来た満さんは三菱造船所で働き始めた。だが、平穏な結婚生活は長く続かなかった。44年の冬ごろ、召集令状が届いた。出征まで5日ほどしかなく、中村さんは急いで千人針の準備を始めた。白い布と赤い糸を持ち、岡政百貨店(後の長崎大丸)へ向かった。人通りが多い場所がいいと思ったからだ。「ご主人ですか」「大変ですね」と声をかけられた。他にも、白い布を手にした女性が通行人に結び目を作ってもらっていた。

 中村さんは妊娠7カ月だったが、無事、千人針を完成させた。出征当日は、地域をあげて盛大に送り出すことになった。

 夫の満さんの出征日。地域の人たち30人ほどが、列を作って長崎駅に向けて歩いた。中村さんは「身重だから来なくていい」と言われていたが、「これが最後かもしれん」と付いて行った。

 「勝ってくるぞと勇ましく」と歌いながら、紙の日の丸を振った。山を越え、約2時間かけて長崎駅まで行って送り出した。

 満さんがどこに派遣されるか、分からなかった。3日ほどして、福岡県久留米市で菊太郎さんと一緒に満さんと面会をした。

 満さんと、検閲を逃れるために手紙を書く際の暗号を決めた。出征先が海外なら「海山さん」、内地なら「山本さん」に決めたと記憶している。それから1週間後、「海山さんによろしく」と手紙に書いてあった。戦地に行けば危険も増す。不安が一気に膨らんだ。

 しばらくして、近所の山で警備…

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