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瀧野佐和子さん(1925年生まれ)

 「よく生きていたものね」。三菱長崎製鋼所(長崎市茂里町)が原爆で鉄骨だけになった写真を見て、瀧野佐和子(たきのさわこ)さん(88)=長崎市=はつぶやいた。爆心地の南約1キロ。製鋼所の事務所の3階で仕事をしている最中に被爆した。

 「爆心地近くで被爆をして、いまも体験を話せる人は少ない」。瀧野さんを記者に紹介してくれたのは、被爆者で元長崎大学長の土山秀夫さん(89)。瀧野さんが戦後、長崎大で事務職員として働いていた時からの知り合いだという。

 原爆による病気がいつ出るか、心配しながら生きてきた。それを忘れさせてくれたのが、戦後まもなく始めた茶道だった。茶道をしている時は嫌なことを忘れられる。表千家県支部の参与を務めるまでになった。

 記者が家を訪ねると、瀧野さんはお茶をたててくれた。お茶の香りと暖かさに、心が落ち着いた。

 瀧野さんは東日本大震災による原発事故の後、核エネルギーの危険性を認識し、「絶対に使ってはいけない」との思いを強くしたという。

 だが、県外で茶道をする時、若い世代が原爆や原発にどの程度の関心や知識があるかを尋ねると反応は鈍く、危機感を持った。被爆者健康手帳を見せても、何なのか分からない人ばかりだった。「県外では被爆について知っていることは、当たり前ではない」ということを身をもって感じた。

 それまで、積極的に被爆体験を話してこなかった。だが、「このままではいけない。自分ができることをしていきたい」との思いを持ち、核問題について機会があれば話すようになった。

 被爆者が高齢化して、平和活動に取り組む人は幼少期に被爆し、断片的な記憶しかない人が多くなっている。それだけに、「被爆した時に成人だった私が話さなければ」との思いも強くなっていった。

 瀧野さんは長崎市稲佐町で生まれた。女学校を卒業し、現在の長崎文化放送の辺りにあった三菱長崎製鋼所に庶務係として就職。原爆投下の前に2人の姉は結婚して家を離れ、三菱長崎造船所幸町工場の技師だった父梅三(うめさぶ)さんと母ふくさん、弟、妹の5人で暮らしていた。

 広島に原爆が投下された翌日。女学校に通っていた妹が、「今日中に疎開するように」と学校で言われて帰ってきた。ふくさんと弟、妹は親戚がいる大村へ、その日のうちに出発した。仕事がある瀧野さんと梅三さんは自宅に残った。「日本が戦争に必ず勝つ」との思いで仕事をしていた頃だったため、仕事を放棄はできなかった。

 8月9日は朝から空襲警報が鳴り、三菱長崎製鋼所の事務所が入る建物の地下に隠れていた。空襲警報が解除され、仕事場の3階へ。瀧野さんの席は建物の南よりの窓際にあった。席に座っていると、黄色い光が目に飛び込んできた。とっさに机の下に隠れた。

 瀧野さんは何が起こったのか分からないまま、気を失った。数時間たっただろうか。目を開けると、職場の部屋を分け隔てていた敷居はなくなり、本棚なども全て倒れていた。建物の北側にいたはずの人が目の前まで吹き飛ばされていた。

 瀧野さんは右足をがれきに挟ま…

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