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石田寿さん(1895年生まれ)

 ナガサキノートで2014年夏、柳川雅子(やながわまさこ)さん(83)=東京都文京区=を紹介した。14歳の時に被爆し、その体験を病床でつづった「雅子斃(たお)れず」を出版した女性だ。「雅子斃れず」は連合国軍総司令部(GHQ)の検閲で一時は出版禁止になったが、父で被爆当時、長崎地裁所長だった石田寿(いしだひさし)さん(1895~1962)が出版に向け奔走したことにも触れた。

 13年10月、石田さんが自身の被爆体験を語った様子を録音したテープが見つかった。1953年ごろ、京都地裁で職員らを前に話したものだ。

 録音されていた約2時間の肉声。とめどなく語り続けるのを聞いていると、「伝えたい」という強い意思がうかがえる。もう50年余り前に亡くなった石田さんを身近にも感じた。

 テープに残された証言などから、石田さんの体験を振り返る。

     ◇

 石田さんは1895年生まれ。長男の穣一(じょういち)さん(86)の著書によると、石田さんの父は元裁判官で弁護士をしていたという。

 自身も裁判官になり、東京で勤務していた石田さんに転勤の話が持ち上がったのは、1944年。「広島に行かないか」と持ちかけられた。当時、ちょうど妻を亡くしたばかり。4人の子どもを連れて行くのはつらいと思いながらも決心し、上司に「参ります」と告げた。すると、上司は「昨日、君の夢を見た。葬式に行って、子どもが焼香して祈るところが夢に出てきた。かわいそうだ。もう1年東京におりなさい」。上司の計らいで広島行きは取りやめとなった。

 だが、翌年3月、長崎地裁所長に転任することになる。「どうせ原爆にぶつかる運命だったのだと思います」

 石田さんは長女の雅子さんとともに長崎に引っ越す。東京と長崎は雰囲気が違った。雅子さんは東京では靴を履くのが当たり前だったが、長崎ではげたが普通だった。

 45年8月9日、石田さんは雅子さんと朝ご飯を食べた。その日は、長崎市勝山町にあった長崎地裁所長官舎の引っ越しの日だった。長崎には現在の高裁にあたる控訴院があったが、8月1日付で福岡に移り、所長官舎の近く、同市八百屋町の控訴院長官舎が空いたため、石田さん一家がそこに移ることになったのだ。石田さんは証言テープの中で「官舎だけ栄転ですが」と冗談めかして語っている。

 当時、雅子さんは学徒動員先の三菱兵器大橋工場に通っていた。2、3日前、雅子さんは「歯が悪い」と言っていたといい、石田さんは「引っ越しの日だから休んだら」と勧めた。だが、雅子さんは「大切な仕事があるから、どうしても工場を休むわけにはいかない」と答えたという。見送った石田さんは「後でひどい目に遭うとはちっとも予期せず、元気に出て行った」と語る。

 原爆が落とされたのは、その引…

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