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風見治さん(1932年生まれ)

 2014年8月14日。長崎市の市街地の南、風頭山の斜面を貫く「へいふり坂」を歩いた。周囲に広がる墓地を、お盆で先祖を弔う花火と爆竹の音と煙が包んでいた。老若男女が集まった家族の姿がいくつもあった。

 この坂を描いた絵を6月に見た。鹿児島県鹿屋市で暮らす風見治(かざみおさむ)さん(82)の作品だ。風見さんの出身は、坂を上った先の風頭町。ハンセン病のため、故郷や家族と引き離された風見さんが、望郷の思いを込め、病気のため変形した指に絵筆を挟んで描いたのがこの絵だ。名前は本名ではない。身内に差別や偏見が及ばぬよう、風頭から「風」の字を取ったこの名で生きてきた。

 1945年8月9日、療養のため、風頭町の自宅にいた風見さんは原爆を体験した一人でもある。閃光(せんこう)を目撃し、爆風を受けた。ハンセン病の苦難の中を生きた半生とともに、原爆にどう向き合って来たのかを知りたいと思い、鹿屋市の国立療養所星塚敬愛園で暮らす風見さんを訪ねた。

 10月7日、鹿児島市から桜島の浮かぶ鹿児島湾をフェリーで渡り、さらに進んで大隅半島にある鹿屋市に着いた。平らな盆地に畑が広がる一帯に、国立療養所星塚敬愛園はあった。長崎の港を見下ろす風見さんの出身地・風頭との光景の違いが、故郷との距離を感じさせる。

 37万平方メートルの広大な敷地を持つ同園は1935年に開所。当時、ハンセン病は「らい病」と呼ばれ、患者は強制隔離の対象に。43年度末には最多の1347人の入所者がいた。31年制定の「癩(らい)予防法」に代わり、53年にできた「らい予防法」も隔離政策を維持し、96年まで廃止されなかった。

 同園には9月現在、168人が入所。うち「八重岳寮」に今残るのは、風見さんだけだ。雄のチワワ、ムンク(11)と暮らす。

 「今日からくんちだね」。私と会ってすぐ、風見さんはそう語った。故郷からの来訪者を歓迎してくれているように感じた。風見さんと向かい合い、人生に耳を傾けた。

 風見さんの故郷、長崎市風頭町は市中心部を見下ろす山にある。現在、坂本龍馬像が建つことで知られる。風見さんは街につながる「へいふり坂」を行き来して磨屋国民学校(現在の市立諏訪小学校の場所)に通った。

 病気の発覚は5年生の時。顔や手に大豆くらいの大きさのこぶができた。町医者から行くように言われた長崎医科大(現・長崎大医学部)付属病院では、診察室ではなく階段で診察を受け、ハンセン病と診断された。

 療養所に入るよう言われたが、菊池恵楓園(熊本県合志市)に見学に行った兄は、周囲を囲む高い壁に驚き、「こんな所に入れてはならない」と思ったという。家族は強制隔離から逃れるため、風見さんを親戚の元に預けた。実際に、県の担当者が自宅まで来たことがあったという。ほとぼりが冷めた頃、自宅に戻り、療養を続けた。国民学校はもう辞めることになった。

 原爆に遭ったのは、発病してから2年後のことだった。

 45年8月9日。風見治さんは爆心地から約4キロの長崎市風頭町の自宅にいた。飛行機の音が聞こえてきて、米軍のB29かと思い、軒下から空を見上げた。母親に「母ちゃん、早う家に入らんね。敵機が来よるごたる」と声をかけた。

 突如、目の前が真っ青の光で包まれた。そして爆風が襲った。晴れていた空は、真っ黒に変わった。家の壁がはがれ、柱もずれた。「屋根は、クワで掘り起こしたみたいになった」

 しばらくすると、眼下の市中心部は火災が広がった。長崎駅方面がずっと焼けていくのを見ていた。その向こうにある稲佐山は「鋼鉄色に燃えていた」という。

 風見さんは、その後、現在の雲…

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