[PR]

脱北者の証言:26 女性(60代) 1998年に脱北(2002年に日本入国)

 ――日本で生まれたそうですね。どうして北朝鮮に行くことになったのですか。

 両親が朝鮮半島生まれで、母が朝鮮総連の活動をしていた関係で、日本の化学工場で働いていた父を押し切る形で1960年9月に新潟から出航した。7人きょうだいで長女の自分もついていくしかなかった。

 北朝鮮北東部・咸鏡北道の清津(チョンジン)港に到着して10日後、北部の遊仙(ユソン)という炭鉱の町に移った。帰還者の家族が100世帯ぐらいいた。父は炭鉱で働き、母は炭鉱の中のキムチつぼを作る場所で働いた。父は炭鉱事故で1968年に死亡、北朝鮮行きを決めた母も1994年に自宅で亡くなった。

 ――北朝鮮では、どんな仕事をしていましたか。

 中学校を卒業してから、技術学校に2年行った。仕事はれんがを作るところで、重労働だったが、働く場はそこしかなかった。機械はプレス機しかなく、木で作ったハンマーで大きな塊をたたいてれんがにする。夏は汗だくで、下着までぐっしょりぬれた。12日間働いて1日休む間隔で、れんがをたくさん作った人は多く給料をもらえる仕組みだった。自分は100ウォンほどもらっていた。そのときはトウモロコシ1キロ5ウォンぐらいだったので、それが20キロ買えるぐらい。結婚するのが遅かったら妹や弟のように党員になれていたかもしれないが、あまりにも仕事がきつかったので2年で結婚した。

 夫は日本人。夫の母の再婚相手が在日の総連幹部だったので、北朝鮮に連れて来られてきた。北での総連幹部の会議のとき、帰還者同士の中でだれかいい人はいないかということで縁談が来た。

◇カビくさくて食べられなかった配給

 ――生活が苦しくなったのはいつごろからですか。

 1968年に結婚したが、暮らしは96年からとても苦しくなった。夫は病気と栄養失調で97年に亡くなった。若いころは大型車の運転もした体の大きな人だったけれど、おなかに水がたまり、職場に行けなくなった。そんな体でも、家族のために山に入ってまきを取ったり、山菜採りに行ったりしてくれた。最後は道で倒れて寝たきりになり、53歳で亡くなった。

 自分は靴工場で働いていたが、病気の夫と認知症のしゅうとめの面倒を見るために昼休みには往復1時間かけて家に戻った。しかし、働いても配給がなくなった。何カ月かに1回、1キロのトウモロコシしかもらえなくなった。それも、中国産トウモロコシなのだが、重量を増やすためか水をかけて膨らませている。それを運んでくるものだから、届くころにはカビがはえてカビ臭くてたまらない。洗って食べようとするのだが、どうにも食べられないほどだった。

 とにかく何もないから市場へ通…

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら

こんなニュースも