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舛谷澄子さん(1923年生まれ)

 長崎市の舛谷澄子(ますたにすみこ)さん(91)は8人家族だったが、原爆で家族全員を失った。自宅は爆心地近くの松山町。離れた職場で働いていたために難を逃れた。家は原爆で全壊し、焼け跡で家族の帰りを信じて待ち続けた。

 当時、21歳。手元に残ったのはアルバムの写真と、家族のものとみられる遺骨、母親が持っていた布袋だけだった。被爆の直後は涙も出なかった。家族全員を奪われた衝撃と原爆の破壊力を目の当たりにして、「人間らしい心を失っていた」と振り返る。

 戦後、子どもに恵まれたが、今でも「家族が恋しい」と思う。子どもが小さいころは、「お母さんは21歳の時から1人で生きてきたのよ。しっかりせんね」と口癖のように言ってきた。

 「原爆が落ちんやったら、私の人生どうなっていたか」といつも思う。「なんで世界に2発で、その一つが長崎に落ちたのか」。納得できる答えなどない。

 舛谷さんは6人きょうだいの次女として生まれた。生まれは長崎市稲佐町と聞いている。松山町には県立長崎高等女学校入学後に引っ越してきた。家の近くには路面電車が走り、にぎやかだった。

 松山町には当時、長崎刑務所浦上刑務支所があった。現在の平和公園にあたる場所だ。自宅の前で、ひもにつながれ、浴衣のような服を着た受刑者たちが刑務支所から連れ出されていたのを覚えている。

 女学校を1940年に卒業。炭鉱関係の職場を経て、梅香崎町にあった川南工業の事業本部で働いた。10畳ほどの狭い部屋に女性が10人ほど働き、1人に1台、タイプライターが与えられた。会社が外部向けに出す文書などをタイプする仕事で、勤務中はもんぺ姿だった。忙しさに追われたが、たまに時間が空くと、編み物をしたり、手紙を書いたりして過ごした。

 家に帰れば、両親と姉、妹2人、弟2人との生活が当たり前のように待っていた。

 1945年8月9日も、舛谷さんはいつも通り、午前8時ごろに家を出た。出かける際に姉の園代(そのよ)さんに「今日は(会社に)行くの?」と聞くと、「行くよ」と返事が来た。園代さんは食糧の買い出しのため、前日は会社を休んでいた。園代さんは、思案橋あたりにあった保険会社で事務員をしていた。

 このやりとりが、家族との最後の会話となった。

 舛谷さんが自分の職場に着くと…

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