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 代助は父を怒らせる気は少しもなかったのである。彼の近頃の主義として、人と喧嘩(けんか)をするのは、人間の堕落の一範疇(はんちゅう)になっていた。喧嘩の一部分として、人を怒らせるのは、怒らせる事自身よりは、怒った人の顔色が、如何(いか)に不愉快にわが眼に映ずるかという点において、大切なわが生命を傷(きずつ)ける打撃に外(ほか)ならぬと心得ていた。彼は罪悪についても彼れ自身に特有な考を有っていた。けれども、それがために、自然のままに振舞(ふるま)いさえすれば、罰を免かれ得るとは信じていなかった。人を斬(き)ったものの受くる罰は、斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じていた。迸(ほとば)しる血の色を見て、清い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助はそれほど神経の鋭どい男であった。だから顔の色を赤くした父を見た時、妙に不快になった。けれどもこの罪を二重に償うために、父のいう通りにしようという気は些(ちっ)とも起らなかった。彼は、一方において、自己の脳力に、非常な尊敬を払う男であったからである。

 その時父は頗(すこぶ)る熱した語気で、先(ま)ず自分の年を取っている事、子供の未来が心配になる事、子供に嫁を持たせるのは親の義務であるという事、嫁の資格その他については、本人よりも親の方が遥(はる)かに周到な注意を払っているという事、他(ひと)の親切は、その当時にこそ余計な御世話に見えるが、後(あと)になると、もう一遍うるさく干渉してもらいたい時機が来るものであるという事を、非常に叮嚀(ていねい)に説いた。代助は慎重な態度で、聴いていた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許諾の意を表さなかった。すると父はわざと抑えた調子で、

 「じゃ、佐川はやめるさ。そう…

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