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竹下芙美さん(1941年生まれ)

 長崎市の爆心地周辺を歩くと、多くの被爆遺構やモニュメントが目に入る。あることが当然と思いがちだが、取り壊しの危機を乗り越えたものや、一部を残して撤去されたものが多い。

 「放っておくと、被爆遺構は取り壊されてしまう」。長崎市の竹下芙美さん(73)は被爆遺構の保存活動に20年以上取り組み、運動を先導してきた。

 きっかけは、ごく普通の主婦だった1987年と88年、知り合いの誘いで行った沖縄での戦跡巡りだった。

 戦時中に住民が防空壕(ごう)として使ったガマ(洞窟)に入った。明かりが消されると、目を開いているのか、閉じているのかも分からないくらい真っ暗。湿気でジメッとしており、足元はぬかるんでいる。

 案内人の説明によれば、当時はケガをした兵士が運び込まれたが薬もなく、麻酔も無しに足を切断される人もいた。暑さの中、血の臭いや、傷口のうみの臭いが充満していた。兵士は安全なガマの奥を陣取り、住民は入り口近くに追いやられていたという。

 暗闇の中、血の臭いやうめき声が聞こえるようで、竹下さんは「ああ、こんな所にいたのか。私が使っていた防空壕とは全然違う」と思った。

 被爆当時3歳だった竹下さんにとって、家の下に掘られていた防空壕は「楽しみな場所」だった。おもちゃがあり、中は明るかった。空襲警報が鳴ると母親が中に入れてくれるので、警報を楽しみにしていた。ガマも同じようなものだと思っていただけに、ショックだった。

 「ひめゆり学徒隊」の語り部の宮城喜久子さんを宿泊先のホテルに招き、体験を聞いた。沖縄戦の終盤、沖縄本島最南端の荒崎海岸の岩場に追い詰められ、岩陰に身を隠したという。その後、竹下さんは宮城さんが隠れた岩を訪れ、あぜんとした。子ども一人が、かがんでも完全には隠れないほどの大きさ。こんな小さな岩で身を守ったのか……。

 「本物が残っているからこそ、伝わる戦争の恐ろしさや悲惨さがあると思い知った。しっかり声をあげて残していかないと」。この体験が、竹下さんを市民運動に駆り立て、活動をずっと支えてきた。

 92年、平和公園で旧長崎刑務所浦上刑務支所の遺構が出土した。被爆当時、中国人や朝鮮人を含む受刑者と職員ら134人全員が死亡したとされる。市は公園の地下に駐車場を造る工事をしており、「経費がかかる」「平和公園のイメージが悪くなる」として全面保存に後ろ向きだった。竹下さんは「平和公園の被爆遺構を保存する会」の代表を任され、平和祈念像の前で連続24時間の座り込みをするなどして、全面保存を訴えた。

 当時、長崎市長だった本島等さんにも陳情した。全国から支所跡の保存を求める約3万5千人の署名が集まった。だが、遺構の大半は埋め戻され、「身が引き裂かれる思いだった」。現在は、支所跡のほんの一部しか、見ることはできない。

 被爆者運動の先頭に立った山口…

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