落語家で初めて文化勲章を受章し、上方文化の象徴的存在だった人間国宝の桂米朝(かつら・べいちょう、本名中川清〈なかがわ・きよし〉)さんが19日午後7時41分、肺炎のため死去した。89歳だった。通夜は24日午後6時、葬儀は25日午前11時から大阪府吹田市桃山台5の3の10の公益社千里会館で。喪主は長男で落語家の中川明(五代目桂米団治)さん。葬儀委員長は田中秀武・米朝事務所会長。

 持ち前の品格に満ちた高座の中に、深く広い笑いの世界を表現した噺(はなし)家だった。1925年に旧満州で生まれ、兵庫県姫路市に育った。幼いころから大阪の寄席演芸に親しみ、東京の大東文化学院(現・大東文化大学)に進学後、寄席文化研究家の故・正岡容(いるる)に師事した。47年、21歳で上方落語家の四代目桂米団治に入門。力のある落語家の相次ぐ他界で衰退した上方落語界を、三代目桂春団治、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝と共に立て直し、「四天王」と呼ばれた。

 若いころから、消えかけていた落語の復活に尽力。死後の世界を旅する爆笑長編「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」をはじめ、「はてなの茶碗(ちゃわん)」「天狗(てんぐ)裁き」「算段の平兵衛」「骨(こつ)つり」「風の神送り」などを上方噺として再生した。数多くのネタに工夫を施して、戦後のスタンダードを築いた。

 探求心に裏打ちされた博識と誠実さ、聞きやすい関西弁で、「ハイ!土曜日です」(関西テレビ)などテレビやラジオの番組の司会者としても活躍した。メディアで培った知名度を集客につなげ、昭和40年代からは各地の大ホールで独演会を重ね、継承すら危ぶまれた上方落語を全国区へと発展させた。

 米朝落語は音源や活字で「全集」化され、一門を超えて落語界に広く影響を与えた。後世に残したい芸談や故事来歴を記した「上方落語ノート」や、入門書の名著「落語と私」など著書も数多く、落語の文化的地位の向上に貢献した。直弟子に枝雀、ざこば、吉朝らがおり、総勢約70人の大所帯の一門を率いた。60年代に上方芸能の中堅・若手が結集したグループ「上方風流(ぶり)」でも中核を担い、文楽の竹本住大夫さん、歌舞伎の坂田藤十郎さんらジャンルの垣根を越えて芸能人や文化人と親交が深かった。

 95年度の朝日賞を受賞し、96年に落語家では五代目柳家小さんに続き2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。2002年に文化功労者、2009年には文化勲章を受けた。

 骨折や脳梗塞(こうそく)などで、80歳を過ぎてからたびたび入院。落語を披露することはなくなったが、弟子たちと芸談を語った「よもやま噺(ばなし)」や口上で晩年も舞台に上がっていた。