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西村長壽さん(1927年生まれ)

 長崎原爆の爆心地から西へ500メートルの長崎市城山町の市立城山小学校のすぐ外で、桜の花が開き始めている。昭和15(1940)年の卒業生たちが97年に15本を植えた「十五の桜」だ。

 城山小に残る被爆校舎の2階には、桜に囲まれた校舎の姿を描いた絵が展示されている。作者は被爆者の西村長壽(にしむらながとし)さん(87)。十五の桜の発案者。桜に囲まれていた被爆前の姿を子どもたちに見せてあげたいという思いだった。

 桜の季節を前に、3月、京都市伏見区で暮らす西村さんの元を訪れた。西村さんは城山町で過ごした子どもの頃の思い出を語ってくれた。ウナギやシロウオが捕れた豊かな川、様々な遊び、そして自慢の小学校。

 城山小や城山町は原爆で壊滅し、多くの犠牲が出た。私自身、崩れた建物や焼け野原のイメージがある。だが、西村さんの話に耳を傾けていると、被爆前の町の姿がよみがえるようだった。

 西村さんのもとには、幼少期の城山町の写真が数枚残る。原爆で大きな被害を受けた城山町の被爆前の姿をうかがわせる貴重なものだ。雪が積もった町や、近くにあった城山幼稚園、大きな通りを行き交う人々の写真。それらを見ながら、西村さんは「こんなに雪が降った時があったんですよ」「こういう広い道だった」と教えてくれた。

 西村さんは5人きょうだいの長兄。父は中国・上海で様々な事業をしていて、西村さんも3歳ごろまで現地で暮らした。だが、赤痢や疫痢がはやったため、母と子どもたちは上海から近い長崎に移った。一家が住まいを定めたのが、城山町だった。

 「当時、城山町は新開地だった。周囲の環境が良かったから城山に来たのでは」と西村さんは推察する。京都のように碁盤目状に区画され、大きな通りを挟み、北と南に1条、2条……と広がっていく、きれいな町だったという。教師や三菱の技術者らが住んでいたといい、「インテリの町だった」と語る。

 城山町の東側には、浦上川が流れている。西村さんたちは「梁(やな)の川」と呼んでいたという。

 幼少期、川ではシロウオ漁が行われていた。四角の網を上げ下げして、川を上ってくる魚を取る。「優雅なもんですよ」。西村さんは、よく母に頼まれてシロウオを買いに行った。「ざるを持っていって、『おじさんちょうだい』って。(家で)卵とじにして食べさせてもらった」

 西村さんは、ウナギ捕りもした。「よく捕れた」と懐かしむ。とっぽ(竹筒)を川の中に入れて、石を上に組んでいく。すると、自然とウナギが入ってくるという。ガニと呼んでいたカニも一緒によく捕れたという。

 川は干満の差が大きかった。潮が引くと、川の中の茂みを探って回った。「ボラがあちこちの茂みに残っているんですよ。ボラにスズキ。『スズキとれたよ』って駆け回って」。西村さんの話を聞きながら、当時の川の情景を思い浮かべ、心が躍った。

 城山町周辺は、浦上川以外にも子どもたちの遊び場にあふれていた。

 城山尋常高等小学校(現在の城山小)に入学すると、校内の林を駆け回った。現在、体育館がある場所に生えていたムクノキにも登った。現在の同市油木町にあった市立長崎商業学校近くの畑では「大将」「伍長」「一等兵」などと役割を決め、戦争ごっこを楽しんだ。「どうしても大将にならんと気がすまないやつがいてね」と西村さんは笑う。

 城山小のすぐ下には、川向かいの三菱長崎製鋼所で使ったコークスの廃棄物を埋め立てる「ガラ場」があった。そこで楽しみだったのは、大人たちがやっていたメジロの鳴き比べを見ることだ。大人は金を賭けていたようだが、西村さんら子どもたちもどちらが勝ちか、一生懸命耳を澄ました。鳴き比べは、大人が吹く竹笛のピーッと言う音が始まりの合図。西村さんも、竹をとってきて、笛を作ってみたが「難しかった」と振り返る。

 西村さんは城山町から川や線路を越えて、後に原爆の爆心地となった松山町付近まで出かけることもあった。

 松山町では、農家がやってきて野菜などの朝市が立ち、母とともに買い物に行ったことを覚えている。松山町の交差点から、浦上天主堂の方へ入った辺りにはアメ屋があり、アメの塊を伸ばしてお菓子を作っていた。「伸ばして、はさみでちょんちょん切って。楽しくて見に行っていた」と懐かしむ。

 付近の国鉄の線路も遊び場だった。西村さんらは、色のきれいなガラス瓶を拾ってきて線路に置き、汽車にひかせた。そうすると、ガラスの粉の出来上がり。それを、のり代わりのごはん粒と混ぜ、たこ糸に練り混ぜる。その糸でたこを揚げて、糸同士を絡め合い、勝敗を競ったのだ。

 「列車が入って、すぐに行くと怒られる。ガラスを置いて、じーっと隠れて待っているのがどんだけ楽しいか」。西村さんは少年のような笑顔を浮かべる。

 西村さんが1934年に城山尋常高等小学校に入学した当初、南側のコンクリート校舎しかなかったが、37年、北側に新しいコンクリート校舎ができた。被爆し、現在、西村さんの桜の絵が展示してある校舎だ。旧校舎と新校舎を結ぶ廊下を初めて通ったのは5年生の時だったと記憶している。「きれいな廊下を歩いて、どんなにうれしかったか」。原爆が落ちた後、自宅近くに戻った西村さんの目に見えたのは、その新校舎の一番北側が燃えている姿だった。

 新校舎にあわせ、新しい運動場もできた。西村さんら子どもたちも川から石を拾ってきて、運動場に掘られた溝に埋めた。先生に聞くと、水はけをよくするためだと教えてくれたという。桜が学校を囲むように植えられたのも運動場ができる前後だったという。「きれいだった」。その光景はずっと心に残り、後の「十五の桜」につながる。

 校門を出ると、西日に照らされ…

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