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 五、六分して、代助は兄と共に自分の席に返った。佐川の娘を紹介されるまでは、兄の見え次第逃げる気であったが、今ではそういかなくなった。余り現金に見えては、かえって好くない結果を引き起しそうな気がしたので、苦しいのを我慢して坐っていた。兄も芝居については全たく興味がなさそうだったけれども、例の如く鷹揚(おうよう)に構えて、黒い頭を燻(いぶ)すほど、葉巻をくゆらした。時々評をすると、縫子あの幕は綺麗(きれい)だろう位の所であった。梅子は平生(へいぜい)の好奇心にも似ず、高木についても、佐川の娘についても、何らの質問を掛けず、一言(いちごん)の批評も加えなかった。代助にはその澄(すま)した様子がかえって滑稽(こっけい)に思われた。彼は今日(こんにち)まで嫂の策略にかかった事が時々あった。けれども、ただの一返も腹を立てた事はなかった。今度の狂言も、平生ならば、退屈紛(まぎ)らしの遊戯程度に解釈して、笑ってしまったかも知れない。そればかりではない。もし自分が結婚する気なら、かえって、この狂言を利用して、自(みずか)ら人巧的に、御目出たい喜劇を作り上げて、生涯自分を嘲(あざ)けって満足する事も出来た。しかしこの姉までが、今の自分を、父や兄と共謀して、漸々(ぜんぜん)窮地に誘(いざ)なって行くかと思うと、さすがにこの所作(しょさ)をただの滑稽として、観察する訳には行かなかった。代助はこの先、嫂がこの事件をどう発展させる気だろうと考えて、少々弱った。家(うち)のものの中(うち)で、嫂が一番こんな計画に興味をもっていたからである。もし嫂がこの方面に向って代助に肉薄すればするほど、代助は漸々家族のものと疎遠にならなければならぬという恐れが、代助の頭のどこかに潜(ひそ)んでいた。

 芝居のしまいになったのは十一時近くであった。外へ出て見ると、風は全く歇(や)んだが、月も星も見えない静かな晩を、電燈が少しばかり照らしていた。時間が遅いので茶屋では話をする暇もなかった。三人の迎(むかい)は来ていたが、代助はつい車を誂(あつら)えて置くのを忘れた。面倒だと思って、嫂の勧(すすめ)を斥(しりぞ)けて、茶屋の前から電車に乗った。数寄屋橋(すきやばし)で乗り易(か)えようと思って、黒い路(みち)の中に、待ち合わしていると、小供を負(おぶ)った神(かみ)さんが、退儀そうに向(むこう)から近寄って来た。電車は向う側を二、三度通った。代助と軌道(レール)の間には、土か石の積んだものが、高い土手のように挟まっていた。代助は始めて間違った所に立っている事を悟った。

 「御神(おかみ)さん、電車へ…

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